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気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

矢原隆行 リフレクティング―会話についての会話という方法 ナカニシヤ出版

2022-05-22 22:20:40 | エッセイ オープンダイアローグ
 矢原隆行氏は、1968年生まれ、九州大学から大学院博士課程で、社会学を学んだらしい。現在は、熊本大学のHPによると、同大学院人文社会科学研究部の教授で、専攻は臨床社会学ということである。

【臨床の知とリフレクティング】
 臨床社会学とは何かについて、詳しいことは置くとして、中村雄二郎の臨床の知、河合隼雄の臨床心理学、鷲田清一の臨床哲学と、私が慣れ親しむ知の系譜に連なるものであることに間違いはないだろう。そして、実は、リフレクティングはオープンダイアローグと密接なかかわりがあり、このあたりはまさしく臨床の知の、あり得べき豊かな水脈のなかでの美味なる果実と呼ぶべきところである。20歳のころに、合理的な哲学から見放され放逐され遁走した私が、再度取りつく島として見出した臨床の知の、可能なる沃野でもある。
 私の考えでは、哲学とは、(永続する)世界を隅から隅まで首尾一貫して合理的に説明しつくす原理ではなく、現に存在してしまっている世界を妥当な範囲で合理的に解釈する方法であり、人間にとっての世界とはその都度の語りのなかで構成される(仮設の)構築物である、というようなところであろうか。そういう哲学なら、溺れそうな私も取りついて、なんとか息継ぎできる、というものである。
 さて、リフレクティングとは、ふつうに考えれば、反射とか反映とか、まずは光や音についての現象であるが、ここでは、人間の会話についてのある種の方法のことであるらしい。

【リフレクティング、あるいは「会話についての会話」】
 まずは、「はじめに」の、2ページ目から読んでみる。

「本書は、「会話についての会話」という画期的なコミュニケーション方法について紹介することを目的としています。1980年代後半、ノルウェーの臨床家であるトム・アンデルセン(Tom Andersen)らによって、リフレクティング(reflecting)という耳新しい言葉で提唱されたこの方法は、画期的であると同時にとてもシンプルで、場合によっては、ごく当たり前の話し合いのように見えるものです。」(ⅱページ)

「アンデルセン自身の魅力的な表現を借りれば、それは「実行できるくらい単純な、有用と思えるくらい想像的な、どこでも行えるほど小さな、しかも我々の関心を失わせないだけの予期せぬ驚きに満ちた何ものか」だといえます。」(ⅱページ)

 リフレクティングとは、単純でどこでも行えるのにも関わらず、有用で予期せぬ驚きに満ちた方法であるのだという。

「この方法は、家族療法という固有の文脈のなかで生まれました…」(ⅲページ)

【家族療法、ベイトソンのダブル・バインド理論】
 第1部基本編の1端緒は、家族療法の文脈を語ることから始まる。

「家族療法の登場により、それまで個人において、さらにいえば、個人の「心」において見出されてきた「病気」は、家族の「システム」において見出されるようになったのだ。」(4ページ)

 家族療法とは、精神科の医療におけるひとつの方法であることに間違いはないのだが、精神医学の枠内のみにとどまる話ではないということだろう。人間のコミュニケーションのあり方についてのパラダイムシフト、ひいては人間の文化総体のパラダイムシフトに関わるものであるらしい。

「その当初から家族療法の歴史とともに歩んできた家族療法家のリン・ホフマンはその著書において、家族研究の揺籃期に最も強い影響を与えた人物として心理療法家ではなく、情報理論家のクロード・シャノン、サイバネティクスのノバート・ウィナー、一般システム理論のルートヴィヒ・フォン・ベルタランフイ、そして、グレゴリー・ベイトソンの名前をあげている。…きわめて幅広い射程を有する…これらの理論が、はたしてどれほど直接的に家族療法の領域に影響を及ぼしえたのかについては議論の余地があろうが、1950年代以降の家族療法の登場と発展が、こうした新たな科学の繚乱という大きな文脈のうちに位置づけられていることは了解できるだろう。」(5ページ)

 グレゴリー・ベイトソンといえば、文化人類学者、ダブル・バインド理論である。
 斉藤環氏らのオープンダイアローグについての書物においても、ベイトソンのダブル・バインドは、ロシアの文学者バフチンのポリフォニーとともに繰り返し参照されるところである。
 以下、ベイトソンのコミュニケーション理論が、家族療法と直接の接点を有するということで詳細に紹介され、これはたいへんに興味深いところであるが、ここでは割愛する。しかし、下記の、「コミュニケーションについてのコミュニケーション」、つまりメタ・コミュニケーションについての矢原氏のつぶやきだけは引用しておきたい。発せられた言葉に内包される意味のずれ、というか、二重の意味というか、肯定と否定が同居しているというか。

【余談、京都のぶぶ漬け】
「(たとえば、筆者自身まだ体験したことはないが、京都のお宅を訪問した際に慇懃に「ぶぶ漬けでもどうどす?」といわれれば、それが一般に何を意味するのかを多くの日本人は知っているだろう)。」(6ページ)

 余談であるが、私も「ぶぶ漬け」そのものの経験はないが、もう半世紀も前の大学生時代、京都において、後から考えるとであるが、似たような体験はしたことがあり、コミュニケーションのあり方について、深く考えさせられたところである。東北人の若造のナイーブさでもって、ぶぶ漬けどころか、使い捨て容器ならぬ漆塗りの器に盛られた大変に美味しい本格的な仕出し弁当を取っていただいて、ひとりで食してしまったのであった。だからといって、暖かく待遇していただいた記憶しかないのだが、詳細は、また別の機会に書くこともあるだろう。閑話休題。

【家族療法、ミラノ派】
 さて、家族療法のミラノ派である。

「1967年、イタリアのミラノに設立された家族研究所のメンバー、…「ミラノ派」とも呼ばれる彼らは、男女2名ずつからなる4人一組で治療を行った。…男女一組のセラピストが家族と面接室に入り、残る男女がワンウェイ・ミラーの背後の観察室にいる。この二つの空間を仕切るこのワンウェイ・ミラーは、…ミラノ派では治療を進めるための道具として位置づけられた。」(10ページ)

 何らかの困難を抱えた家族(=クライアント)と、直接面談するチームと、マジックミラーの後方に控える別チーム。ミラノ派においては、別チームは、面談するセラピストとは通信装置か何かで会話するが、直接に家族と言葉を交わすことはなく、その前に姿を現すことはないらしい。専門家として陰に控えて、スーパーヴァイズする、というようなことなのだろう。
 アンデルセンらは、イタリア、ミラノを訪問し、ミラノ派の方法を学び、自分たちでも家族療法を行っていた。
 しかし、家族療法を進めるうちに、あるとき、ワンウェイ・ミラーの後ろに隠れていたアンデルセンらは、クライアントの前に飛び出してしまったのだという。そこからすべては始まったのだと。

【リフレクティングの誕生】
 詳細は、ここも本書に当たってほしいが、クライアントと直接言葉を交わさない、面と向き合わないという点は維持しつつ、クライアントに関して隠れて会話していた専門家チームがクライアントの面前に姿を現して、クライアントに聞こえるように何やかやと語り合う、という点で、根本的に変わった、ということである。

「リフレクティングという言葉は、英語のそれではなく、ノルウェー語…フランス語の“reflexion”の意味に近い…。すなわち、…何事かをじっくりと聞き、考えをめぐらし、そして、考えたことを相手に返すことを意味する。」(17ページ)

 ここは、ベイトソンのコミュニケーション論とか、バフチンのポリフォニーとかを踏まえた、リフレクティングの肝であり、つまり、オープンダイアローグの肝でもあるところだ。

「アンデルセンらは、リフレクティング・チームのやり方について、三つのルールを設けた。」(20ページ)

 この三つのルールについては、別に末尾に引用することにするが、

「以上三つのルールに通底しているのは、唯一の「正解」や「真理」が存在し、専門家こそがそれを有しているという考え方(すなわち「あれか、これか」)から、物事には多様な見方があり、さまざまな意見の交換からさらに新たな会話が展開していくことが望ましいという考え方(すなわち「あれも、これも」)への転換の姿勢である。」(20ページ)

「こうして1985年3月の夜にアンデルセンらが生み出したリフレクティングという実践は、家族療法のみならず、従来の治療関係、あるいは、対人援助のあり方全体を捉えなおす大きな分岐点となった。」(20ページ)

 第2部応用編では、「スーパービジョン」、「事例検討」、「職種間の連携促進」、「地域での住民座談会」、そしてなにより「オープンダイアローグ」への活用が語られる。

 リフレクティングとオープンダイアローグは、基本的な思想としてはほぼ同じものと言っていいと思われる。もちろん、違いはあるわけで、ここまで私が読んだ本の記述を並べて異同をあきらかにすることもできるわけであるが、それはまた必要のある時に、ということになるだろう。ただ、障害だとか児童だとかの福祉の現場においては、リフレクティングのほうが汎用性が高いというか、使いやすい、というところもあるかもしれない。関係者から抵抗なく受け入れられやすいといえるかもしれない。
 この書物を読んで、現場において、リフレクティングという方法を活用していきたいという思いは、ますますつのる、ということになる。

※リフレクティングにおける三つのルール
「第一のルールは、あくまでその場の家族たちの会話内容にもとづいて反応や解釈を行ない他の文脈からそれを持ち込まないということ。これと同時に、断定的な話し方は避け、「私は…と感じました」「僕には…と聞こえた」「ひょっとすると…かもしれない」といった話し方が用いられる。このようにすることで、家族たちの会話に沿いながら、唯一の正解を競うことなく、多様な選択の可能性(チームの話に対する受け取りの自由さ)が確保される。第二のルールは、家族が聞いている会話で家族について否定的なことを言わないこと。…第三のルールは、…家族たちの方に目を向けて話さず、チームのメンバー同士で向きあって話すこと。これによって、聞いている人たちを視線で縛ることなく、「聞かなくてもいい自由」が確保される。」(20ページ)




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