ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

エッセイ 菅啓次郎氏、柴田元幸氏らの朗読劇「銀河鉄道の夜」のこと

2012-09-24 01:01:36 | エッセイ
古川日出男、菅啓次郎、小島ケイタニーラブ、柴田元幸というラインナップの朗読劇「銀河鉄道の夜」を見てきた。23日(日)南三陸町ベイサイドアリーナ。
翻訳家柴田元幸氏はもちろん知っていた(村上春樹との対話その他)が、菅啓次郎氏は、昨年8月に出た「ろうそくの炎がささやく言葉」(勁草書房)の編者として記憶していた。
冒頭の谷川俊太郎の詩「ろうそくがともされた」に付された谷川のコメントによれば、この本は「ろうそくの光の下で詩を音読するという企画」で編まれたらしい。ささざまな作家、詩人の、詩と短い散文のアンソロジー。
読みとおして、これらの詩は好ましい、と思った。すべて分かりやすい。難しい言葉があるわけでなく、妙な仕掛けだとか、目くらますような言葉遣いだとか一切ない。それでいて、とても深いものがある。
冒頭の「ろうそくがともされて/いまがむかしのよるにもどった/そよかぜはたちどまり/あおぞらはねむりこんでいる」ではじまる谷川俊太郎の詩は言うまでもない。
新井高子は「紅いひなげしが咲いていました/浜辺に、/片方だけ、皮靴が打ち上げられておりました/縛ったままの靴ひもでした」(片方の靴 10ページ)と書きだす。
中村和恵の2連目は「今朝気がついたんだけど、あたしはきっと/人間ではなくて ヨウカイなんだ/理解されないのはしかたがない/ヨウカイだもの」(ヨウカイだもの 16ページ)
私と同じ1956年生まれのぱくきょんみというひとは「わたしは この まちを しっています/この まがり みち/この ゆるやかな さか/この さんかく やねの うえ」(この まちで 77ページ)とひらがなの長い詩を書きだす。
帯に「朗読のよろこび、東北にささげる言葉の花束」とあるこの地味な装丁の本は、私がこれから書いていこうとするものに、ひとつの好ましい方向性を指し示してくれたように思う。
さて、先日、職場の本吉図書館の入り口の各種のチラシをおいている棚の上に、「朗読劇銀河鉄道の夜」という手書きの紅い夕焼けぞらをバックにしたイラストの小さな二つ折りのチラシを発見した。4人の名前のうちに、菅啓次郎と柴田元幸という名前を発見した。23日には、南三陸町志津川のベイサイドアリーナで公演するらしい。題材は銀河鉄道の夜だと。宮沢賢治だ。
その日は、ちょうど休みでもある。岩手県気仙郡住田町、南三陸町、そして福島県喜多方市と続く日程の中日。「ろうそくの炎がささやく言葉」を持って、行ってみることにした。菅氏とお話しすることができるようであれば、サインをいただくことなどきっかけに、この本の感想などお話したいとも考えた。
行ってみて気づいたのだが、古川日出男氏は、冒頭から2人目の作家、柴田氏も、翻訳で参加していた。柴田氏は、読んだ時にはもちろん分かっていたが、すっかり忘れていた。舞台上での菅氏によれば、この公演自体が、その本がきっかけであったらしい。なるほど。
公演は、大変面白かった。私のために演じてもらっていると言いたいくらいだった。こんな言葉を、こんなしかけで見せてくれる。こういうことを面白がるのは、他の誰でもない、この私だ、と自信を持って言える、というような。
私は、宮沢賢治フリークと呼べるようなディープなファンではない。ごく凡庸な、一般的な読み手に過ぎないが、花巻と気仙沼との距離感とか、詩を書いてとかいうなかでは、それなりに深い思いは抱かざるを得ない。たとえば気仙沼演劇塾うを座において、壤晴彦さんの指導、演出の下で「賢治アラベスク」と題して舞台上で「注文の多い料理店」の地の文の読み手を演じたこともある。震災後には、職場隣のはまなすホールで、劇団キャラメルボックス版の「銀河鉄道の夜」も面白く見たところだ。
古川日出男氏は、作家としては存知あげなかったが、この作品においては、脚本家であり、演出家であり、役者であり、舞台の中核であった。プロフェッショナルであった。二十代前半までは、実際に劇団で関わっていたとのお話だった。
柴田氏は、「柴田君と佐藤君」という著書もあるが、東大教授であるのに、ハーフ丈のパンツを穿いて、脚立を抱えて登場するなど、柴田先生、柴田教授というより、柴田君という呼び名がぴったりの方であった。英語の発音は、もちろんお上手であった。最初の公演を見て、押しかけて出演者となったというお話であった。勇気づけられる。
ちなみに、今年9月の8日~9日、気仙沼、大船渡と「詩のボクシング」の被災地大会が行われたところだが、今日の作品にも、雨ニモマケズの原文と英訳を、菅氏と柴田氏が始め交互に、徐々に後半は重なり合って朗読する、まるで別種の「詩のボクシング」であるようなシーンもあった。
賢治の「銀河鉄道の夜」は、単なるファンタジーでも童話でもなく、人間の死に関わるとても深い物語だ。死んだ人と隣り合わせに生きていくこと。われわれは、死んだ人と隣り合わせに生きている。その記憶を抱えて生き続ける。なおさら、いま、東北の太平洋岸のわれわれは、あのひとやそのひとのことを語りながら、忘れえないまま生き続けている。
親や妻や子や、友人や教え子や、職場の仲間や、記憶は簡単に消えるものではない。当然のことだ。今日の作品は、南三陸のまちで存在する意義があったものだといえるだろう。ろうそくのともしびのような言葉が存在しつづけるなら有難いことだ。
私は、この作品に、ぜひとも参加すべきであると思い立った。私の歌える歌、語れる言葉が、実際あった。次のクールには、柴田元幸氏にならって、押しかけて、舞台の上に立ちたいものだと思い立った。
というか、菅さん、次の機会には、ぜひ、気仙沼で、とお願いするあたりが、まずは穏当な線ということにはなるのだろう。気仙沼演劇塾うを座と詩誌霧笛の仲間を中心に、然るべき受け入れはできる。(もちろん、相談してお願いしてというプロセスを経てのこと。)しかし、柴田氏の二歳下、菅氏の二歳上で、古川氏のちょうど十歳上である私が、するりと忍び込める隙間は、この舞台の上には、確実に存在していると、私は確信している。


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