エセーである。
似非(えせ)ではない。
私は似非モンテーニュ、ではあるかもしれない。
なんでそう思い立ったのか、今となっては定かではないが、あるとき、モンテーニュのエセーを読もうと思い立った。Essais 、随想録。ふつうに言うエッセイ、随想、随筆の元祖。
清少納言の枕草子は、平安時代だから、それよりはずっと下るし、方丈記、徒然草も鎌倉時代か、日本の方が、ずっと歴史が古い、とも言えるな。
白水社から新訳で出た、という話題を目にしたからなのか、あるいは、読むと決めて調べたら出ていたということだったのか、今となってはよく思い出せないが、宮下志朗訳が4冊まで出ていたのでさっそく買い求めた。第1分冊が2005年初版、2009年に4刷。第4分冊が2010年7月の発行である。その年の秋か冬になった頃に買ったものだと思う。全7巻の予定のようだが、その時点で、4巻までしか出ていなかった。
記録を見ると、11年の1月9日に、第1巻を読み終えている。震災をはさんで、4月に2巻、3巻、5月の末に4巻と読んだ。4巻まで読み終えて、5巻目がしばらく出なかった。途方に暮れて、別の翻訳で読み始めようかなどとも思った。で、ずっと出ない出ない、もはや続きは出ないのかもしれないなど思っていた矢先、昨年後半になって、すでに出版されていたことに気づいた。13年の2月に出ている。見逃していた。これは、アマゾンで勝手に勧めてはこなかった。
ちなみに、第6巻が、この12月に発行されたようだ。ちょうどこのタイミングで。実は、さきほど注文した。この調子では、無事全7巻期待してもよさそうだ。
さて、モンテーニュは16世紀フランスの田舎貴族で(とは言っても、ボルドー市長を務め、名誉職ではあるが国王の侍従の肩書ももったらしく、相応の地位ではあったようだ)、自分の城館に引き籠って徒然なるままに日暮らしものを書きつづった。あることないこと、首都パリの文壇やら大学の講壇とは無関係に書き連ねていた。そして、その書いたものがエセー(随想録)として後世に伝わった、ということになる。
第1巻の冒頭には、こんなことが書いてある。
「読者よ、これは誠実な書物なのだ。この本では、内輪の私的な目的しか定めていないことを、あらかじめ、きみにお知らせしておきたい。きみの役に立てばとか、わたしの名誉となればといったことは、いっさい考えなかった。」(エセー第1巻 9ページ 読者に)
「つまり、読者よ、わたし自身が、わたしの本の題材なのだ。だからして、こんな、たわいのない、むなしい主題のために、きみの暇な時間を使うなんて、理屈にあわないではないか。では、さらば。」(同 10ページ)
実用的な書物ではない。信仰のためとか、学術のためとか、そんな明確な目的、他人の役に立つ目的があって編まれた書物ではない。一方で、自らの名誉も考慮していないのだと。ひとに良く思われようなどということは考えずに書いているのだと。たわいのない、むなしい書物であると。
これは「徒然なるままに日暮らし…」などという「徒然草」の書き出しとほとんど同じではないか。
まあ、ひとつの謙遜ではあるだろうが、実の用に役立つ本ではないというのはそのとおりのことだ。著者の周囲の人物がこれを読んでも、金儲けにも、家政の切り盛りにも、使用人の上手い使い方にも、隣人との付き合いにも、役立たない書物。しかし、ここに内省する個人がはじめて立ち現われた、ということは言えるのかもしれない。古代ローマの書物を参照しながら、ひたすら個人の意識という内的な現実を書き続けた書物。
哲学者デカルトが、このエセーの愛読者だったという。「我思う、ゆえに我あり」のデカルトである。ヨーロッパ近代哲学の祖、フランス合理論の祖、懐疑主義者。
この懐疑主義というのは、疑うために疑う、というわけではない。むしろ、信じるために疑うということである。「方法的懐疑」という。
ものごとを見、ものごとを考えるのに、一切の先入観を排除し、明晰な曇のない目でもう一度見直す。ものごとをありのままに見直す。
そうだな、「見直す」ということ。
ありふれたつまらないものだと思ったものをもう一度見直し、その優れた点をもう一度見いだすこと。
逆に、とてもエライ、権威のあるもの、権威があると思われているものをもう一度見直し、その限界を知ること。一方的な服従から逃れ、自らの意思を立てなおすこと。
見直して、再構築する。エヴィデンスから揺るぎのない結論を導く。
ヨーロッパの近代科学は、デカルトから始まると言っていいくらいの大人物、大哲学者である。
こうして改めて書いてみると、私自身、相当にデカルトの影響は受けていると思う。「方法的懐疑」は、実生活においても、実は相当役に立っている。
しかし、現在は、デカルト以降の科学の限界が取りざたされて評判の悪いところもある。私も「エヴィデンス」などということばは、このところの使われ方ではあまり好まない。すでに、当時からパスカルは「私はデカルトを許さない」とか言って、批判していたことは周知のことだが。
パスカルは、例の「人間は考える葦である」と言った哲学者であるが、実は、数学者、あるいは物理学者でもある。「近代科学の祖」であると言ってもいい人物のひとりでもある。しかし、デカルト的ではない考え方をした人。
デカルト対パスカル。
一方は、神をカッコに入れて、あまり神のことを考えなくても世の中のことは説明できると考えた人で、一方は、神が絶対に大事で常に神と共にあろうとした人。
一方は、精神と肉体、精神と物質を全く別のものとして区別した人で、一方は、それらを区別のできない一体のものと考えた人。
非常に乱暴に言ってしまえば、デカルトは西洋的で、パスカルはすこし東洋的だと言えないこともない。いや、これは乱暴に過ぎる言い方だな。
パスカルは、モンテーニュを好まなかったという話もあるようだ。もちろん、よくよく読み込んだうえでのこと。エセーには、ほとんど聖書からの引用がない、ということも理由のようだ。ほとんどすべてが、ギリシャ、ローマの文献からの引用。ギリシャは直接ではなく、ラテン語経由らしい。
ということで、モンテーニュの「エセー」は、現代社会の在り様を規定した本のひとつである、と言って間違いはないようである。
で、この5冊目は、第2巻第13章から始まっている。
第13章「他人の死について判断すること」は、こう書きだされる。
「死ぬということが、人の生涯において、もっとも注目に値するふるまいであるのは間違いのないところではあるものの、他人が死に際して示す落ち着きについて判断をくだすためには、『人間は自分が死ぬ時が訪れたのだとは、簡単には信じられないものだ』ということを肝に銘じておく必要がある。『これで自分は最後なのだ』と悟って死を迎える人は、少ないのであって、むしろ、人生のうちでも、死に際ほど、われわれがいつわりの希望にだまされやすいときはないのである。…(中略)…自分のことを買いかぶりすぎているために、こうしたことが生じる。自分がこの世からいなくなると、世界全体がいくぶんかは苦しんで、自分の状態に世界も同情するかのように思ってしまうのだ。というのも、われわれの視覚がおかしくなると、事物がゆがんで見えるのと同じで、ものごとが見えなくなると、それが消え去ったかのごとく思ってしまうのだ。」(9ページ)
さて、「自分がこの世からいなくなると、世界全体がいくぶんかは苦しんで、自分の状態に世界も同情するかのように思ってしまう」という。
これは、ある意味その通りのことである。少なくとも一般的には、親や子や配偶者や親しい友人は悲しんでくれるに違いない。悲しんで苦しんでくれる。ごく一部ではあるとしても、世界のある部分が苦しんでくれることは間違いない。
しかし、一方、人が死ぬのは日常茶飯事であり、この気仙沼市内においても、一人もひとが死なない日というのはほとんどないのだ。火葬場はほぼ毎日稼働し、三陸新報に死亡広告の載らない日はない。私ひとりが死んでも、世界全体のなかでは、何ごとでもないのだ。大河に落ちた一滴は、小さなボートから身を乗り出してさえ見定めることはできない。
もっとも、蝶の羽のはばたきが、地球の裏側に台風を起こす、とかいうもの言いもあるからだし、その死がなんらかの事件性があるものであれば、世界を揺るがせる、ということはある。これが「テロ」の恐ろしさの由縁ではあるが、このことはまた別の文脈のことである。
私も、こうしてつらつらと考えてしまうが、モンテーニュ氏は、こんな調子で、ながながと考え込んでいく。
例示として引き合いに出されるのは、カエサルやら小カトーやら、ローマ時代の人物たちである。
カエサルも「自分をおびやかしている大海原よりも大物なのだぞうぬぼれて」(11ページ)いる。
いや、カエサル(後に皇帝(ツアーとか)ということばの語源となるローマの将軍。英語読みでシーザー。クレオパトラの愛人。「ブルータス、おまえもか!」の台詞を語った人。)であれば、大海原よりも偉大だと言っても許されるかもしれないが。
どちらにしろ、一般人たるわれわれが死んだとしても、枯れ葉一枚の揺らぎのようなものなのである。
ところで、死の苦しみはできるだけ避けたいと思うのは、今も昔も変わりがない。
「カエサルも、『どのような死に方がもっとも望ましいですか?』と聞かれて、『不意不測の、あっという間の死がいい』と答えている。…(中略)…『短い死は、人生の最高の幸福である』と、プリニウスもいっている。…(中略)…死んでいるのがつらいわけではなくて、死ぬことがつらいのである。/『死ぬのはいやだ。でも、死んでしまえばなんのことはない。』」(15ページ)
若い頃は、死ぬこと、無に帰ること、それはとんでもなく恐ろしいことに思えたが、だんだんに、死ぬこと自体はそんなに恐ろしいことでもいやなことでもない、みたいに思えてきている。どちらにしろ、苦しんで死ぬ、苦しみの時間が長い死に方はまっぴらである。ご免蒙りたい。
第14章は、「われわれの精神は、いかにそれ自体がじゃまになるか」。いかにも「懐疑論」の先駆者に似つかわしい題材である。
「精神(エスプリ)というものが、まったく同等の二つの欲望のちょうど真ん中で、どうしようかと揺れ動いている姿を想像してみるのは、愉快なことだ。」(22ページ)
「『含まれるものは含むものよりも大きい』とか、『円の中心は、円周の大きさに等しい』だとかを、確実な証明によって基礎づけたり、『絶えず接近していきながら、絶対に交わらない二本の線』を発見したりする、いわゆる幾何学の命題…など、理性と経験的事実が矛盾するようなことがらを付け加えてみるならば、ひょっとすると、ここから、《なにごとも不確実だということほど、確実なことはない。人間ほど、惨めで、傲慢な存在はない》というプリニウスの大胆な発言を補強する論拠を引き出せるかもしれない。(23ページ)
なるほど、「方法的懐疑」、そのものである。
念のため言っておけば、この引用の二重カッコ(『 』)のなかは、ふつうには間違いでしかない。あからさまにおかしなもの言い、矛盾していることである。ただ、言葉は、そういう矛盾したことも言ってしまえるものだし、数学は、ある条件のもとではそれは正しい、と証明できてしまったりするものだ。
(さらにいえば、そこにこそ、文学とか科学の可能性(あるいは危険性)が秘められているのだが、それは、ここでは置いておく。)
言ってしまえば何でも言える、ということは、言葉にされたとしても確実なことはひとつもない、ということにつながってしまうし、「全てが不確実だということこそ確実だ」ということになるわけだ。
デカルトは、そういうことを考えたその先に、すべてのものは疑わしい、そうだとしても、しかし、疑っている私の存在そのものまでは疑うことができない、考えている私はここに確かに存在する、という基盤を発見した。転回点、折り返しのポイントを発見した。そこから、一個の哲学を組み立てた。
なるほど、モンテーニュは、デカルトの先駆であるわけだ。この章など、繰り返し読んだに違いない。
この分冊最後は、第37章「子供が父親と似ることについて」である。この章は、医学批判である。医学がずいぶんと批判されている。遺伝のこととか、家系のこととか、性格のこととかが中心なのではない。
もっともこんなことは書いてある。
「われわれが生み出される、あのひとしずくの精液のうちに、われわれの父祖の身体的形状にとどまらず、彼らの考え方や性癖までも刻み込まれているというのは、なんと不思議なことであろう。」(325ページ)
医学嫌いが遺伝したという話である。
「なにしろ、このわたしは、あの運命的な挿入と注入によって、医学に対する憎悪と軽蔑を受け継いでいるのだから。医術への反感は、わたしにとっては、遺伝性のものなのである。わたしの父は74歳まで生き、祖父は69歳まで生き、曾祖父は80歳近くまで生きたが、彼らはいかなる薬も飲まなかった。…(中略)…同じ家、同じ屋根の下に生まれ、育ち、死んだ三世代が、医師のいいつけを守って、いずれもこれほど長生きしたという実例を、彼ら医師たちが、はたして患者名簿のなかに見いだせるかといえば、はなはだ怪しいと思うのである。」(327ページ)
「運命的な挿入と注入」か。それは置いておいて。
これは、持って回った言い方をしているが、要は、医師の言いつけを守っていたら、こんなに長生きはできなかったということである。
続けて、「医者たちのあいだでは、運は理屈よりも、よほど価値があるのであるし」。これは、またずいぶんとひどい言い草である。
病気は、医者の医学の知識で治るのでなく、運が良ければ治るというのだから。
「わたしは、われわれが自然界を活用していることを否定などしないし、自然のパワーや豊饒さを、それがわれわれの必要を満たしてくれることを疑ってはいない。…(中略)…だが、われわれ人間の精神や、学問や、技術が考え出したことには、不信をいだいている。われわれは、それらをひいきにして、自然と、自然のルールを捨て去り、節度や限界を守れなくなっているではないか。」(329ページ)
ここは、まさしく、懐疑論である。こういう疑い、疑うことが、実は、科学を進歩させたのだ。不信を抱いて、それで捨て去ってしまったわけではない。むしろ、不信の方を除く道を求めたのである。ものごとを良く見て、確かなことを再発見して、組み立て直す。それが科学の進展を促した。
これは、いま現在のわれわれにとっても、まさしく、同じ事態が生じているのではないか。不信をもっている。「科学の限界」を目の当たりにしている。「自然のルールを捨て去り、節度や限界を守れなくなっている。」
しかし、われわれは科学を捨て去ることはできない。科学とは、人間がなにごとかを考えてきたその蓄積にほかならないからだ。ここまでの科学の在り様については、反省し、つくり替えていくことはしなくてはいけない。それは間違いがない。
進歩する。
しかし、それを進歩と呼ぶべきかは、難しい問題である。
変化であることは間違いがない。
ただし、具体的な論点に関しては、進歩することはある。問題が提起されれば、全てとはいかなくても解決される。難問にも、いつかは解答が見つかる。
科学も、あるいは技術もと言ったほうがいいのかもしれないが、常に問題が提起され、課題が生じ、それをクリアする、解決する、というプロセスが繰り返されてきた。それこそが科学の進歩であった。そういう進歩は、これからも毎日毎日、毎年毎年繰り返される。個別具体の論点に関しては、常に進歩していく。知識は常に増大していく、進歩していく。
しかし、その総体を進歩と呼ぶべきなのか?人類は進歩し続けていると称すべきなのか?それは、やはり相当に難しい問題にほかならない。
医学について、モンテーニュは、その理想とするところは理解し、是としているようだが、実際の医学、現実の医師が行う医学については、全く評価していないという。
「わたしも、医学に関しては、この栄光ある名称と、人類にとってきわめて有用な、その目的や約束には大いに敬意を払いはするが、医学なる名が意味しているところのものに対しては、敬意も払わないし、評価もしていない。/先ず第一に、経験によって、わたしは医学を恐れている。わたしの場合知っているかぎりでは、医学の管轄のもとにある人々ほど、病気になるのが早くて、治るのが遅い人種はいないのだ。食事療法という拘束のせいで、かれらの健康そのものがむしばまれ、そこなわれている。医者たちときたら、病気を支配するだけでは満足せず、健康をも病気にしてしまって、われわれが一年中、彼らの権威から逃れられないようにしようとする。」(330ページ)
当時の医者がどういう存在だったのか、ここに書いてあるとんでもなく低い評価は、モンテーニュ独りのものだったのか、その家系の独占物だったのか、あるいは、一定程度広く世間に共有されたものだったのか。
いずれにしろ、ここでもモンテーニュは、単に医学を捨て去ることをしない。いや、個人的には、否定し排除しているのかもしれないが、後に読むものには、むしろ、正しい医学、よりよい医学を目指させる指針となっているというべきだろう。理想はこうだ、と書きあげている。
「治療という目標に正しく照準を合わせるには、要素、要因、状況など、膨大なデータを必要とする。病人の体質、気質、体液、傾向、行動、考え方や発想などを知らなくてはいけない。その土地の性質や空気・空模様や気象条件、惑星の位置とその影響など、外的な状況についても確かめないといけない。病気については、その原因、兆候、疾患、病気が峠を迎える日を、薬種、薬剤については、その分量、効力、原産地、形状、有効期限、正しい処方を知る必要がある。そして、これらの諸要素すべてを照らし合わせて、しっかりと勘案して、完璧なバランスを生み出さないといけない。ほんの少しでもミスをしでかして、これほど多くのバネのうち、たった一本でも外れると、もうそれだけで、われわれを殺すのに十分なのである。そうした要素の多くを知ることが、どれほど困難であるかは、神様もご存じだ。」(342ページ)
ここに書いてあることは、全くその通りのことである。当時の優秀な医学者が、「これらの諸要素すべてを照らし合わせて、しっかりと勘案して、完璧なバランスを生み出す」ための努力を惜しんだとは思われない。このモンテーニュの一節を読んだ医学者であれば、なおさら、この理想を実現すべく奮起したに違いない。つまり、医学に対する懐疑が、むしろ医学の進歩に寄与している、ということになる。モンテーニュが、実現不可能な理想として描いたものが、目指されるべき目標と機能してしまった。
これはまた、今の医学においても、まったくそのまま当てはまる内容である。その理想が実現してしまったということではない。もちろん、ある部分は進展し、実現したものもあるだろう。しかし、全体としては、いまだ理想にとどまっている、としか言いようがないのではないか。そういう意味で、当てはまっている。
明治以降、現在の日本の医学教育においても、この一節は、取り上げられているに違いない。哲学、医療倫理みたいなことは、かならずどこか(たぶん一年次の教養課程みたいなところで)で学んでいて、ドイツや米英の哲学専門の先生であれば取り上げないとしても、フランス哲学専門の先生ならば必ず触れているに違いない。
フランスの医師養成の課程であれば、むしろ、モンテーニュを読まないなどということは考えられないところだ。
つまり、モンテーニュが、現在の科学としての医学をつくり上げている要素の一つであることは間違いがないはずだ。そこで描かれた理想が、以来常に医学者にとっての目指すべき目標として機能してきた。そして、未だに求めるべき理想であり続けている。その意味で、モンテーニュは、現在の世界に生き続けていると言って過言でないことになる。
この章の末尾は、多様性のこと。
「わたしは別に、自分とは反対の思考法を憎んだりはしない。…(中略)…わたしとは考え方や党派が異なるからといって、そうした人々の社会と自分が相容れないことになるはずもない。むしろ逆に、多様性というのは、自然が歩んできたもっともふつうのスタイルなのである。ましてや、肉体はいうに及ばず、精神はさらにそうではないだろうか― なぜならば、精神のほうが、より柔軟にして、可塑性に富むのだから。したがって、われわれ人間の考え方や意図が一致するのはきわめて稀なことだと、わたしは考えている。…(中略)…人間のもっとも普遍的な性質とは、多様性にほかならないのだから。」(363ページ)
これもまた、現在の西洋的な、あるいは、グローバルな価値観そのものである。モンテーニュは、確かに生き続けているのだ。