塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

サッカーに桃源郷はあるだろうか

2019-03-26 01:41:23 | 日記
 浦島太郎伝説は、我々に桃源郷(この場合は竜宮城)は無いよ、という戒めの物語なのでしょうか。

 よく日本人は働きすぎ、フランス人は夏のバカンスをいかに快適に過ごすかばかりを考える、イタリア人は特にいい加減など、その国の指す枕詞は大いに異なることはよく知られています。

 怠惰な生活では得るものはない、というのは万国共通のような気もしますが、案外、桃源郷はサッカーにはあるのではないでしょうか。

 例えばFCバルセロナとカンプノウ

 オールドファンであれば1970年代から現在に至るまで

 70年代のクライフとニースケンス
 90年代のグアルディオラとロマーリオ
 2000年代のロナウジーニョ
 2010年代のレオ・メッシ

 の姿を生で見ることが出来ていますよね。

 彼らが描く美しく、そして結果を導き出したサッカーを観られる喜び、そしてその劇場となったカンプノウ。

 バルセロナにファンにとってカンプノウは、常に桃源郷なのではないでしょうか。

 勿論、選手全員がレオ・メッシであっても、勝利には直結しません。

 90年代ならばクーマンやスビサレータ、2000年代ならばジュリやプジョルなど、献身的に振る舞う選手、主将として一切の妥協を排除する厳しさを持つ選手。

 彼らがいたからこそ、桃源郷(カンプノウ)はより輝きを増したはずです。

 リネカーのように、本来のポジションで使ってもらえない選手
 リケルメのように望まれた移籍では無かった選手
 ロッケンバックやチグリンスキのように、短期で去った選手

 このように陰陽のコントラストが強いのも、桃源郷としてのカンプノウを語る材料である点は、正直残酷ではあります。

 しかし、レオ・メッシが去っても、更なる特大の才能が輝く場所であるかもしれない、その点は皆さんも感じているに違いありません。
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憧れの選手が引退を表明したならば

2019-03-26 01:23:42 | 日記
 イチローさんが日本での引退会見を終え、シアトルに帰国しました。

 帰国便となった全日空は、イチローさんのこれまでの功績に敬意を払い、エリア51にかけた51番の搭乗口を用意するという、計らいで送り出したことが話題となりました。

 大リーグはワシントンのブライス・ハーパーがフィラデルフィアに移籍し、エンゼルスのトラウトがほぼ終身契約に近い大型契約を得るなど、サッカーに匹敵する大型取引が成立しています。

 例えば横浜FCのファンでなくとも

 「今年もキングと契約してくれるだろうか」
 「ああ、今年も無事にキングが走る姿を見られるんだね」

 と安堵しますよね。

 同様にジュビロファンでなくとも

 「今年も中村は体調を維持できるだろうか」
 「F・マリノス時代の同僚、中澤は引退してしまったが心中はどうだろうか」

 と気がかりですよね。

 これまでの日本サッカーをけん引してきた両選手も、いつかは引退の時が来るわけですし、僕たちはもうどこかでその声明が読まれたときの心の準備をしていると思います。

 もし釜本が引退時、現在のプロの立場であれば、もっともっと大きな喧噪だったに違いありません。

 「釜本はドイツやスペインでも成功しただろうか」
 「彼の事だよ、成功したに決まっているさ」

 という推測に議論ではなく、アマチュアの時代とはいえ、海外で腕試ししてほしいと思うファンは、きっと多かったに違いありません。

 彼らのような有名選手だけでなく、アビスパの城後のように一つのクラブで愚直なまでに戦ってきた選手も、本当に素晴らしいですよね。

 そうしたファンにとって不可欠な存在が引退するとき、選手も彼らの気持ち、きっとわかってくれると感じています。
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