昨日はお彼岸の入りの日のようです。
彼岸とは、煩悩を脱した悟りの境地のこととされていますが、煩悩や迷いに満ちたこちら側を「此岸(しがん)」というそうですよ。
日本では古くから「彼岸会」という仏事が行われ、なくなった方への思いをはせるたり、娯楽浄土に生まれ変われることを願って念仏する日のようです。
また、彼岸会は、春分と秋分を中日とし、前後各3日を合わせた7日間のことで、暦の上では最初の日を「彼岸の入り」最後の日を「彼岸明け」といっているそうです。
極楽浄土という考え方は、浄土思想で信じられている「極楽浄土」(阿弥陀如来が治める浄土)が由来のようで、その浄土が西の彼方にあることから太陽が真西に沈む春分と秋分の日にこうした仏事を行うということになったそうです。
でも、小生などは、それこそ煩悩の塊のような人間ですから「生を終えた後の世界が極楽浄土でありますように」と祈ったことは、あまりありません。
「生を終えた世界が極楽浄土でありますように」は、誰のために祈るのでしょうか?自分のため、そして、祖先のため、全人類のため?でしょうか。
小生などは、根が素直なものですから、秋分のこの季節に「生を終えていった祖先」を供養する行事と考えてお墓に行っています。
でも、祖先とはいっても、やはり「父」「母」のことが中心となってしまいます。
特に、「母」への思いは強いものがあります。
亡くなってから暫くは「こうしてやれば良かった」とかいう大きな後悔の念が頭から離れませんでした。
人間、時がたちますと、こうした心の痛みが薄らいできて懐かしさと自分と家族の今後の人生をどうするかという思いが強くなってきます。
性格の強い方が「年を取って丸くなってきた」というような話を聞くことがありますが、段々と自分の父母の年齢に近づいてきて人生への思いがそうさせるのかもしれません。
逆の方もいる?そうかも知れません、世の中にはいろんな方がいらっしゃいますから・・・
小生は、昨日「人間、年を取ってきたら外見が大事」などと考えました。
年寄りといいますと、腰が曲がって、頭が白く(薄く)、皮膚は「しわだらけ」というイメージがあり、小生は若い頃、母方の祖母が好きではありませんでした。
今、思い出してみますと、その原因がその容姿にあったように思えるのです。祖母の若い頃の写真を見ますと、すごい「美人」に見えるのですが・・・
こうした思いを書いていましたら「諸行無常」などいう言葉が頭に浮かんできました。
などとつまらない話はこのくらいにしまして、彼岸に供物として供える「ぼた餅」ですが皆さんは好きですか?
小生は甘いものが苦手で、いつも家内に「食べないよ!」と言っています。
ぼた餅のことを「おはぎ」とも言っていますが、どちらが正しいのでしょうか?
名前の由来が彼岸の頃に咲く牡丹(春)と萩(秋)だそうですから、どちらも正しい、ということになりますね。
ところで、秋分には昼と夜の長さが同じになるとされていますが、実際には昼の方が夜より約14分ほど長いそうです。
秋分の日には、太陽は真東から上がって真西に沈むそうですから、太陽の様子を見るのも面白いかも知れません。
赤道や南極ではどう見えるのでしょうか?
今日は彼岸にまつわる話をレポートさせていただきました。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます