今月の18日から30日までトルコに行ってきます。13日間という長丁場ですが、ゆったりしたトルコの旅が堪能できそうです。
ところで、今日は旅がきっかけで知り合いになったりするときに使う言葉「袖すりあうも多少の縁」についてお話ししたいと思います。
『旅先では、ちょっとしたきっかけで見知らぬ人と言葉をかわすことがよくある。こんなとき、日本人は言葉をかわした相手となにかの「縁」を感じるもの。』
海外旅行では、こういうことはめったにありませんが、これがたまにあるのが、海外旅行の面白いところです。
もちろん、この話は、現地の外国人と話すという意味ですが、小生の場合は、20数回の渡航歴で何回あったでしょうか?
その中でも、ハワイでの老夫婦との出会いは忘れられない感激の出会いでした。
また、小生が紳士に詰問されたイタリアでの経験は、文化の違いを「まざまざ」と見せつけられた貴重な体験でした。
話が見えない?具体的には「mugifumi夫婦の海外旅行」の「海外旅行の懐かしい想い出http://www.geocities.jp/sinainaruike/omoide」をご覧ください。
このような外国人と会話する機会は少ないのですが、「見知らぬ人と言葉をかわす」という意味では、ツアーに参加する形の海外旅行は、まさにその言葉どおりの経験をすることになります。
なにしろ、知らないもの同士が集まるのがツアーなのですから。
海外旅行ツアーで初めて知り合いになった方々は、今までにどのくらいの数になるのでしょうか?
これが縁で親しくなり、年賀状などのやりとりをしている方が大勢います。
しかし、せっかく親しくなっても、名前と住所を尋ねることができず、ツアーだけでのおつき合いになってしまった、という方がその何倍もいるのも事実です。
その方々の写真を見ますと、「ああぁ、送ってあげたいな!」と残念に思うのですが・・・・
ところで、今日の言葉「袖すりあうも多少の縁」とは、このようなときに浮かんでくる言葉ですが、この書き方は間違っているそうです。
『発音は同じでも「多少」は「多生」と書かなければならない。
「多生」とは仏教用語のひとつで、この世に何度も生まれ変わること。つまり、「袖すりあうも多生の縁」とは、道で誰かと袖がふれあうことも、何度も生まれ変わるうちにその相手と縁が結ばれていたおかげ、ということ。少しだけ袖がふれたから「多少の縁」ではないのである。(誰もが一度は間違える日本語1200(光文社)』
なるほど、多く生まれ変わるですか!その縁で「あなたと知り合えた。」などと考えるのは、素敵なことですね。
12月に姪が結婚しますが、単に「縁があって」ではなく、「多生の縁」で結ばれると言った方がよいかも知れませんね。
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