ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

2018-02-06 04:18:14 | 短歌





石くれも かはのながれに したがひて われをはげめば 玉ともならむ





*これは、ツイッターでしばしいろいろな短歌界の人を見て、嘆いていた時に仲間と詠い合わせた時の歌です。わかってはいましたがね、改めてその世界を見ると、あまりの馬鹿さ加減の絶望しているわたしに、仲間が歌いかけてくれた歌です。

石くれも、川の流れに従って、流れのつらさにも耐えて、自分というものを励んでいけば、玉となるだろう。

確かにそのとおり。よい歌人となるには一生懸命に努力しなくてはなりません。古語の文法を勉強したり、古い歌を呼んで味わったり、何度でも練習してみたり、努力が必要だ。そういう努力を省いて、人を煙に巻くようなことを詠って、こういうのが流行りだとか、上等だとかの宣伝文句をつけてごまかすのは、実に嘆かわしい。

嘘を適当にくって定型にまとめ、おそろしく幼稚な歌を作り、きれいな装丁の本にしている。中を開けば文字は書いてあるが、とても読めたものではない。五行も読めば飽きて本を閉じてしまうだろう。そんな感じのものばかりある。

人間の勉強をし、高い情感を理解している人ならば、洗面器で手を洗うという描写一つにもその人の明るい心が見えるものだが、馬鹿な歌人にはそれはない。低いところに流れていく情念を上等と思い込んで、下手な修辞で詠みこんでいる。

そういうものを売って世に広めるのは、世間が迷惑というものです。人は本をとるとき、自分の生き方に美しいものを取り入れたいと願うものだ。そういうことが何も書いてない本は焚きつけ以上のものにはなれません。古本屋に売るのもだめですよ。だれかが手にとるといけない。

しかし本屋はそういう本ばかり出しているようだ。

この迷いの時代の流れというものでしょう。嘘を上等とし、真実を馬鹿にしてきた。自分だけをよいものにするために、あらゆる策を弄し、自分より優れているとみたものはしらみつぶしにつぶしてきた。それは嫌な方法を使って。

だがそんな時代も終わりつつある。

嘘ばかりがこんなに栄える時代は二度と来ない。

人間は感性が進化し、もう永遠に嘘はいやだというからです。






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あまきすくひ

2018-02-05 04:18:29 | 短歌





かひのこと 夢を調べて 白飴の あまきすくひを 人の世に彫る





*「調ぶ(しらぶ)」はこの場合「演奏する」という意味です。「奏でて」もいいですがたまには違うことばを使うのもいいでしょう。「しらぶ」というと、現代語の意味も重なってまじめにやっているという感じがしていい。

貝の琴をならし、夢を調べて、白飴のような甘い救いの夢を、この世にきざみつけたことだ。

結果的に、かのじょの、人類のすべてを救うと言う夢は潰えました。事実上、最初から完全には無理なことではありましたが、かのじょはやろうとしていた。それをやりたいと思うのが自分であるなら、それが馬鹿なことだと思えようとも、やるのが自分というものです。

ひとり残らずにんげんを救いたい。それがかのじょの夢だったのです。アンタレスなどの厳しい天使から見れば実に甘い夢だ。それはわかっているが、だからと言って自分の望みを捨てられはしない。自分の望みのために何も努力しないことほど愚かなことはない。

それでかのじょはその夢に向かって邁進していたのだが、まさかこんな感じで完全にそれを消されるとは思ってはいなかったろう。最後の最後まで尽力して、救いの橋を保とうとしていたが、それも人類の馬鹿によって完全に否定されたのです。

かのじょは、人類のすべてを救える日記を書いて残したが、人間の馬鹿はそれをまっすぐに認めることさえできない馬鹿をやらかしたのだ。

そして現実的に、人類の馬鹿は総勢で人類を落ちるのです。ほとんど助からなかった。ぎりぎりで抜けられたものは、ほんのわずかでした。

これが現実というか、結果なのだが、まさかここまでひどいことになるとは、わたしたちの予想にもなかったことでした。人類の現実は、本当にひどかったのです。

最後の審判は、クライマックスを過ぎつつある。審判の天使は冷厳に、通るものと通れないものをよりわけています。もうあなたがたはそれにあらがうすべはない。お互いに顔を見れば、通ったものと落ちたものの見分けもつくようになった。人類は見えない色で塗り分けられていく。

白飴の救いはすべて無駄だったのか。だが、かのじょの書いた日記はみなが読んだのだ。と言うことは、救いのたねはみなが心に孕んだことになる。

なにもかもが無駄だったわけではない。それはたしかに、この世に深く彫まれた救いだったのです。






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すべなきこひ

2018-02-04 04:19:16 | 短歌





ぬばたまの やみよのかはを わたりゆく すべなきこひの くるしかりけれ





*ひらがなばかりで詠むことにあまり意味はなく、変換のキーをたたくのがただ面倒だったというだけなのですが、それもたまにはいい効果を生むようだ。こんな簡単なことすらできないのかという空気が漂います。

闇夜の川を渡っていく、そんなことばかりしている、かなうすべのない恋の、なんとくるしいことだ。

闇夜に川を渡るというのは、あまりいいことをする人がやることではありませんね。日や月が明るいときでないと危ないものだ。それを闇夜を、火も焚かずにわたろうとしている者がいる。何をたよりとして渡るものか。向こう岸がどれだけ遠いかも見えないのに。途中にどんな浅瀬にぶつかるかもしれないのに。

ずるいことでもなんでもして、自分の恋をかなえたいのだ。そのためには、相手の気持ちはどうでもいい。相手の幸福など考えはしない。そんな恋がかなうはずはない。それは相手を殺すことだからです。決して愛してはもらえない。たとえずるが成功してうまく手に入れられたとしても、すぐに死んでしまう。

すべてのことは何のためにやったのかというむなしさだけが後に漂う。人間は自分の愚かさから逃げるために、無理に好きだった人のことを忘れようとするものだが。

それは返って永遠に自分の記憶に彫られるのだ。

だれも知らないはずの自分の思いも、もうみなに知られている。逃げることのできない反動が自分に返ってくる。それでも馬鹿はまだ何もしない。いやなのだ。ただただ、何もかもに、負けるのが嫌なのだ。

永遠に勝者でいたい。だれもかれもだまらせて、俺の支配下におきたい。そうすれば、もう何も苦しむ必要はない。

馬鹿者は、男も女もそういうことばかり考えている。だれよりも自分が偉くなれば、自分の愚かさもごまかせると思っているのです。それほどに、あまりにもたくさんの愚かさを積み重ねてきたのだ。

それらをすべてないことにしたいのだ。

永遠にそんなことばかり繰り返すのかという神のささやきをどこかで聞きながら、馬鹿者はえんえんと同じことを繰り返す。そしてとうとう、終わりの日がやってくる。

自分の思い通りにならないことがいやだからと、決して消してはならない愛を消して、神に拒まれるのです。






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水面の月

2018-02-03 04:20:17 | 短歌





澄むみづに うつるかをりを つかまむと 水面の月に 手をのばしてき





*今日は添島の歌をとりあげましょう。彼のブログもかなり好評のようだ。

前にも言った通り彼は人霊です。この存在の機能の一部を借りて表現している。最近では自分のことを幽霊だなどと言って少しふざけているが、それは事実上そのとおりです。肉体を持った存在としてはこの世に生きてはいない。死者の世界からこの世界に出て表現しているわけだが。

その表現は、生きている人間より実に生き生きとしている。

人間は死んだらそれで終わりというわけではありません。死後の世界というが、要するに死ねば帰るべき霊魂の世界があり、そこで生前同様の活動をしています。絵描きは死んでも絵を描いているし、歌人は死んでも歌を詠んでいる。それは実に豊かな活動をしているのです。

澄んだみづに映った香りをつかもうと、みなもの月に手をのばしてしまった。

彼らしい隠喩でしょう。水面に映る月に手を伸ばすということは、遠すぎて近寄りもできぬ人への恋心のあまり、裏から影をさすようなことをしてしまったということだ。

添島揺之は、かのじょの守護霊団を構成している人霊の一人でした。幼いころからかのじょを見てくれていた。だからかのじょがどういう目にあっていたか、かのじょに恋していた馬鹿どもが何をしていたかも知っている。

馬鹿な人間のしていることを、かなり冷たく見ていた。夢のようにきれいな女性なのに、恋の歌ひとつさえ歌えない凡庸の群れが、激しく騒いでいる。その騒ぎようのみっともないことといったら、人間であるとさえ思えないのだ。

恋しているのなら、その苦しみを美しい歌にでも詠めばいいものを。そうすれば自分の心も浄化して進歩することができる。そんなことすらできない人間は、底辺に集まって大勢で馬鹿なことをして騒ぐことしかできないのか。

勉強をしてこなかった人間というものに、彼は絶望したらしい。

もう二度と帰らない月のように、彼もまた二度と、馬鹿者を愛しはすまいと、思ったようです。






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若造

2018-02-02 04:20:05 | 短歌





若造は 青きをつけば さからひて うそをてらひて 低きににげる





*前から言っているように、インスタグラムでは、本物の芸術家を探しています。時に気に入った作品があったりすると、歌をさしあげています。

反応は少ないが、結構気に入ってもらえているようだ。きれいに詠うとまたことのほか喜んでくれる人がいる。そういうことは、インスタグラムの写真を見ればわかるのです。

人の心をごまかすことはもうできない。

これはそのうちで、少々よろしくない芸術家にさしあげたものですね。最初に別の歌をさしあげたのだが、それに反応して返ってくる心がいけなかった。それでまたこう詠んでみたのです。

まあ意味はわかると思うので訳しませんが、まだ勉強のできていない若造は、よくこういうことをしますね。

若造というのは、この世界での実年齢を言うのではありません。霊魂の世界での魂の習熟度を言います。実際、この歌を差し上げた人は、わたしたちが共有しているこの存在よりはこの世での年齢が上らしいのだが、しかし心は子供のようだ。

子供と言っても、無垢とか無邪気だとかいう意味ではない。まるでわかってはいないという意味だ。それなのに実に高い芸術家として有名になっている。

自己活動はほとんど自分ではやっていません。ほかの霊がやってくれている人生に、本霊は乗っているだけです。なんとなくうまくいく自分の人生を、本霊はながめているだけなのです。それなのにずいぶんと偉そうな反応が返ってくるので、表題のような歌を詠ったのです。

本人に伝わったかどうかはわかりませんが、けっこうきついことを詠っているのに、表向きあまりきついことを返してこないところを見ると、どういうことかはわかっているようだ。

もうごまかしはきかない。嘘は通用しない。すべて見破られていく。

ずるいことで自分の人生を儲けていた馬鹿者たちは、これからどんどん正体を暴かれて、落ちていくでしょう。






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砂礫

2018-02-01 04:19:12 | 短歌





玉かとも 見えて砂礫と 散りゆきし あほうの群れの かなしかるべき





*これは、ツイッターで、短歌関係の人のところを見ていて詠んだ歌ですね。歌集を出版している出版社とか、短歌同人誌とかをいくつか見ていたのです。それがあまりにも馬鹿らしかったので、ため息とも怒りともつかぬ歌を詠んだところ、仲間が答えて詠んでくれた。そういう歌です。

「べし」は推量の助動詞です。「きっと~にちがいない」と訳される。連体形になるのはもちろん係り結びの省略形ですね。基本的なことですが、何度もいちいち抑えるのがここでのやりかたです。

それによって、読む人の実力も固まってくる。勉強とはこういう風にするものだ。

こつこつと積み重ねる練習をはぶいて、わけのわからぬことばをそれらしく繰って並べても、よいものはできなしない。

玉のように見えて、砂礫のように散っていった、馬鹿どもの群れは、きっとさみしいことだろう。

出版社のツイッターなど見ると、それは装丁のきれいな歌集などあるのだが、表紙を見るだけで内容がくだらないとわかる。読む気にもならない。

何もない。歌人の心が砂のように動いていない。麻痺しているのではなく。まだ何もできていないのだ。それなのに、高いことをしている高い人間になろうとして、おそろしくいやなことをしている。そういうことが、もう本を見るだけでわかるのです。

感性の伸びた人間も、そういうことは見破るようになっていく。馬鹿な偽物はこうして、淘汰されてゆく。何も残りはしない。

文芸界は短歌界も含めて、もう死に体ですね。よいものは何もない。少し古いものにいくらか本物が見えるだけだ。

ほんものをしらみつぶしにつぶして、偽物ばかりをひいきしてよいことにしてきた、馬鹿がしたことです。今はいいものがほとんどない。

しかし、どこかに本当のいいものが生き残っていないとは限らない。探してみましょう。そして本当にいいものを、この世に育てていきたい。

あなたがたも、よく勉強して、ほんもののいい歌人になってください。






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