歩行弱者になる前には、よく展覧会に足を運び、和洋を問わずに、絵を鑑賞したものである。今では、長いこと歩けないのと、じっと、立っていられないので、せいぜい、その時に購入した絵の解説本を、時々、眺めるのが、愉しみになってしまった。NHKで、自身も個展を開く嵐の大野智のナビゲーターで、科学的にスーパー・ハイビジョン・カメラの技術を駆使した解析で、17世紀中盤の天才絵師、伊藤若冲の超微細な色彩や水墨画の技法の秘密を、解き明かそうとした番組は、とても、面白く、又、興味を覚えた。展覧会で、恐らく、絵を観ても、ここまでの解析は、人間の目では、到底、分からずしまいであろう。金粉を使用することなく、単に、鉄分だけで、画材の裏側に、幾重もの紙を貼ることで、目の中に、鳳凰の羽に、色彩としての金色を浮き立たせたり、或いは、水墨画での筋目書きという技法などは、今日でも、そんなことが、江戸時代に思いつくのかと、ただただ、驚くばかりである。墨汁の濃淡、筆で描くときのスピード、筆の圧力の加減、乾き具合、滲み具合、輪郭を描くことなく、それらを一挙に、描き切るだけの技量と決断力、動きへの洞察力・観察力、更には、絵の具だけではなくて、画材、和紙とは異なる宣紙と呼ばれる、藁を含んだ素材の紙の使用とか、そうしたことを総合的に、駆使して描かれた象や鶏や鳳凰の羽や、龍の鱗の様は、今日でも、科学的に、技法が解明され、真似をしろと言われても、流石の玄人の墨絵画家でも、未だ、及ばない領域である。動作をいくら、凝視しても、素人の我々には、せいぜい、デジカメで、静止画として、切り取られた一片の瞬間の姿ですら、模写することも、なかなか、難しいものである。それにしても、江戸時代に、こんな技法を駆使する絵師が実在したのかと驚かされる。若冲以外にも、写楽・北斎など、後世の西洋の印象派の画家にも、影響を及ぼした絵師がいたことに、改めて、驚かされる。日本人は、昔も今も、やはり、画期的な技術を生む可能性があるのではないかと、思い知らされる。