悲劇俳優でも喜劇俳優でも、自分の仕事は楽しみながらそして苦しみながらやっているんでしょうね。
【ただいま読書中】『チャップリン自伝 ──若き日々』チャールズ・チャップリン 著、 中野好夫 訳、 新潮文庫、1981年、440円
著者の両親は、どちらもロンドンでは売れた寄席芸人でした。しかし離婚、母の声の衰え、などで著者は5歳で舞台に立って小銭を稼ぐことになります。零落して場末の屋根裏部屋にすむようになっても、母親は著者に「本物の芸(とそれを見る目)」を伝えます。どん底の生活となり、一家は貧民院に入りますが、母は婦人寮へ、著者と兄のシドニイは子供寮へ別れ別れになります。さらに入れられた全寮制の孤児・貧民児学校では兄とも別れ別れ。著者は8歳で旅巡業の一座に加わり少年コメディアン、つぎに曲芸師の道化を目指し、また母親と一緒に暮らせるようになってからも様々な職を転々とします。
言葉の端々をつなぎ合わせると、著者の母親は生活に関しては無能力です。金があればあるだけ使ってしまって、無くなってから途方に暮れる。そこでいたいけな子どもが稼ぎに出るのですが、そのことに口は挟むけれど金はちゃっかり受け取っています。さらに母は発狂して精神病院へ。子どもが悪の道に行こうとすれば、最短距離の地点にいることになります。しかし、12歳のときに俳優としてのチャンスを著者は得ます。教育を受けていないために台本もよく読めなかったのですが。新作の戯曲は失敗でしたが、著者の演技は絶賛を受けます。そして次の「シャーロック・ホームズ」は大当たり。著者(とシドニイ)はやっとまともな収入を得られるようになったのです。
16歳の時、著者は子役と大人の俳優の狭間でしばらく役がつかない時期がありました。そこで髭で年齢を隠すことを考えます。舞台に立ったり脚本を書いたりしても思うようにならない時期でしたが、やがてツキが変わります。人気俳優ハリイ・ウェルドンの相手役に抜擢されたのです。そこでの勝負をかけたどたばた演技が観客に大受け。著者はカルノー劇団での花形コメディアンになります。
恋愛についても書かれていますが、著者はどうも思春期ぎりぎりのまだ色っぽくなる前の女の子が好みのようです。熱愛していた子が17歳になって胸が膨らんでしまったのが魅力的ではない、なんて書いています。
1910年のアメリカ巡業、ニューヨークでは成功しませんでしたが西部巡業はそこそこの成功。著者はイギリスではなくてアメリカで活動することを真剣に考えます。自分にとっての本当のチャンスはアメリカにある、と。2度目のアメリカで、映画の口がかかります。給料は倍(週に150ドル)、週に3本の映画出演、1年間契約です。新天地で著者は驚きます。脚本など無くほとんどは現地でアドリブをつないでいって撮影、どんな面白いギャグを言ってもサイレントだから客にはわからないのです。そこで著者は「自分のスタイル」を作り出します。だぶだぶのズボン、大きなどた靴、小さな上着と山高帽にステッキ……「チャップリン」の登場です。さらに、自分の演技を「映画の文脈」で最大限に生かすために、著者は自分で監督も始めます。まだ映画の創生期、演出に関する工夫の余地はいくらでもあったのです。
『大英帝国はミュージック・ホールから』(井野瀬久美恵著、朝日新聞社、1990年)に、ヴィクトリア時代のイギリスでミュージック・ホールがいかに社会的に重要な役割を果たしたかが書いてありましたが、チャーリー・チャップリンもまたその中で活動をしていたんですね。それも貧民街の出身として。私は映画時代の彼しか知りませんが、それ以前の“蓄積”があの姿を作っていたんだと思うと、ちょっと違った目で彼の映画を見直したくなってきました。
【ただいま読書中】『チャップリン自伝 ──若き日々』チャールズ・チャップリン 著、 中野好夫 訳、 新潮文庫、1981年、440円
著者の両親は、どちらもロンドンでは売れた寄席芸人でした。しかし離婚、母の声の衰え、などで著者は5歳で舞台に立って小銭を稼ぐことになります。零落して場末の屋根裏部屋にすむようになっても、母親は著者に「本物の芸(とそれを見る目)」を伝えます。どん底の生活となり、一家は貧民院に入りますが、母は婦人寮へ、著者と兄のシドニイは子供寮へ別れ別れになります。さらに入れられた全寮制の孤児・貧民児学校では兄とも別れ別れ。著者は8歳で旅巡業の一座に加わり少年コメディアン、つぎに曲芸師の道化を目指し、また母親と一緒に暮らせるようになってからも様々な職を転々とします。
言葉の端々をつなぎ合わせると、著者の母親は生活に関しては無能力です。金があればあるだけ使ってしまって、無くなってから途方に暮れる。そこでいたいけな子どもが稼ぎに出るのですが、そのことに口は挟むけれど金はちゃっかり受け取っています。さらに母は発狂して精神病院へ。子どもが悪の道に行こうとすれば、最短距離の地点にいることになります。しかし、12歳のときに俳優としてのチャンスを著者は得ます。教育を受けていないために台本もよく読めなかったのですが。新作の戯曲は失敗でしたが、著者の演技は絶賛を受けます。そして次の「シャーロック・ホームズ」は大当たり。著者(とシドニイ)はやっとまともな収入を得られるようになったのです。
16歳の時、著者は子役と大人の俳優の狭間でしばらく役がつかない時期がありました。そこで髭で年齢を隠すことを考えます。舞台に立ったり脚本を書いたりしても思うようにならない時期でしたが、やがてツキが変わります。人気俳優ハリイ・ウェルドンの相手役に抜擢されたのです。そこでの勝負をかけたどたばた演技が観客に大受け。著者はカルノー劇団での花形コメディアンになります。
恋愛についても書かれていますが、著者はどうも思春期ぎりぎりのまだ色っぽくなる前の女の子が好みのようです。熱愛していた子が17歳になって胸が膨らんでしまったのが魅力的ではない、なんて書いています。
1910年のアメリカ巡業、ニューヨークでは成功しませんでしたが西部巡業はそこそこの成功。著者はイギリスではなくてアメリカで活動することを真剣に考えます。自分にとっての本当のチャンスはアメリカにある、と。2度目のアメリカで、映画の口がかかります。給料は倍(週に150ドル)、週に3本の映画出演、1年間契約です。新天地で著者は驚きます。脚本など無くほとんどは現地でアドリブをつないでいって撮影、どんな面白いギャグを言ってもサイレントだから客にはわからないのです。そこで著者は「自分のスタイル」を作り出します。だぶだぶのズボン、大きなどた靴、小さな上着と山高帽にステッキ……「チャップリン」の登場です。さらに、自分の演技を「映画の文脈」で最大限に生かすために、著者は自分で監督も始めます。まだ映画の創生期、演出に関する工夫の余地はいくらでもあったのです。
『大英帝国はミュージック・ホールから』(井野瀬久美恵著、朝日新聞社、1990年)に、ヴィクトリア時代のイギリスでミュージック・ホールがいかに社会的に重要な役割を果たしたかが書いてありましたが、チャーリー・チャップリンもまたその中で活動をしていたんですね。それも貧民街の出身として。私は映画時代の彼しか知りませんが、それ以前の“蓄積”があの姿を作っていたんだと思うと、ちょっと違った目で彼の映画を見直したくなってきました。