妻は夫に何歩か遅れて歩くんでしたね。でもそうすると、坂道や階段を下るとき、夫は妻に見下ろされることになっちゃいます。あ、見下されるよりはマシか。
【ただいま読書中】『快楽亭ブラックのニッポン ──青い眼の落語家が見た「文明開化」の日本と日本人』佐々木みよ子・森岡ハインツ 著、 PHP研究所、1986年、590円
オーストラリアで起きたゴールドラッシュでの一攫千金の夢破れたジョン・レディ・ブラックは、開国したばかりの日本にふらりと立ち寄り、この国に魅了されます。妻と生まれたばかりの息子ヘンリーを日本に呼び寄せたブラックは、日本人のための“正しい新聞”作りに邁進します。ただのイエロージャーナリズムではなくて、言論の自由に基づく新聞です。実力者たちともつきあいが深くなり、ブラックは“名士”として日本での地位を確立しますが、その鋭い政府批判が煙たく思われたのか、日本政府からは冷たくあしらわれるようになり、晩年は寂しいものとなりました。
さて、息子のヘンリーは父とはまったく別の道を歩みます。“名士”ではなくて庶民の道です。彼は「西洋奇術師」「演説家」として活動を開始します。青い眼で江戸っ子口調というミスマッチと話の面白さが大受け。当時人気絶頂だった開化講釈師の松林伯円と出会って寄席にも講談師として出演するようになります。
ところがこれが、家族や同朋からは不評でした。父親があれほど立派な人間なのに、社会の最下層に位置する「芸人」になるとは何ごとだ、と。
江戸は変貌しています。参勤交代の廃止で、武士が大量に退去し、江戸の人口は100万から一時59万にまで減ったそうです。残ったのは「江戸っ子」だけ。しかしその空白を埋めるように、地方から大量の書生・軍人・官吏が東京に入ってきます。当然「江戸の文化」も変容します。たとえば落語も、人情話や滑稽話が覇を競っていました。そこにブラックが参入します。誘われて寄席に出ているうちに三遊派に入門、半年後には真打ちとして「快楽亭ブラック」の誕生です。彼が得意としたのは、西洋の小説を翻案した連続ものでした。「オリヴァー・トゥイスト」も翻案して高座にかけています。日本人女性と結婚し日本に帰化。ブラックは“日本の最下層”で、しっかりと地歩を固めていました。
世紀が変わり、落語人気は凋落、浪花節が人気沸騰となります。ブラックは落語は続けていましたが、演劇にも興味を示し(団十郎に指導を受けて、その当たり役播随院長兵衛を熱演して大受けだったそうです)、さらには当時流行の最先端である催眠術も披露しています。晩年は“落ち目の芸人”として淋しい生活だったようですが、残された記録では、内弟子がいて朝風呂を楽しむ、というそれなりに優雅な生活ではあったようです。そして、関東大震災の2週間後、快楽亭ブラックはひっそりと息を引き取りました。
明治時代の外国人にとっての「日本文化」は、人によっては魔物のように人を魅了するものだったようです。ただ、それを理解することは異文化ゆえに困難で、ですから快楽亭ブラックのように、「その中で生きる外国人」は想像を絶する存在だったことでしょう。ラフカディオ・ハーンは『神国日本』で、ブラックのことを「日本で生まれ、日本で育ったから、あのように生きることができた」とうらやましそうに書いていますが、これはハーンの誤解で、ブラックはオーストラリア生まれです。ただ、幼少期から日本で育ったことは確かで、しかも親が「日本をきちんと理解しようとする態度」だったことも要因としては大きいでしょう。「氏より育ち」ですね。たとえ日本生まれの日本人でも、西洋の価値観の方ばかり向いていたら、日本の伝統文化を生きることはできないでしょうから。まあ、西洋文化が深く入り込んでいる「今の日本文化」がどこまで「日本」なのかは別の話になるのでしょうが。