【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

沸点降下

2012-11-09 05:33:19 | Weblog

 ウィキには「沸点上昇」と「凝固点降下」はありますが、「沸点降下」はありません。
 でも、気圧が下がれば沸点が下がる現象はちゃんとありますよね。だから高地では摂氏100度で炊けないからご飯が生煮えになる。私は、学校ではなくて、子ども向けにリライトされた『芙蓉の人』を小学生の時に読んでこの現象を教わりました。半世紀経ってもまだしっかり覚えているのですから、子供の時に何を読むかは、大切ですねえ。

【ただいま読書中】『芙蓉の人』新田次郎 著、 文藝春秋、1971年、600円

 明治28年、野中到は厳冬期の富士山登頂にトライします。目的は、冬期の高層気象観測のための予備調査。しかし、当時はまともな冬山登山のための装具もありません。岩よりも硬い氷に対抗するため靴底に打つ釘のサイズや形を工夫し、鳶口はどうかツルハシならどうか、と試行錯誤です。
 当時富士山より高い観測所は、南米のエル・ミスチー山とフランスのモンブランだけ、それも夏期だけの活動でした。もし富士山で冬期の観測ができたら、それは国民の役に立つだけではなくて、国威発揚にもなる、というのが明治人である野中到の“野望”だったのです。厳冬期の富士山登頂(それも日帰り)に史上初めて成功した到は、限られた夏の間に山頂に観測所を建設することに没頭します。妻の千代子は、士族の娘・嫁として夫に尽くしますが、実は“自己主張”もその内部に持っていました。単に家を守っているのではなくて、夫に貢献しよう、と。野中家の人々は、不安を感じます。それまで「良き嫁」であった千代子の心の中に、なにか激しいものが潜んでいることを感じて。そのとき千代子の日記にはすでに「夫婦で冬の観測所に籠る決意」が記されていました。その決意が、千代子の内部から周囲ににじみ出ていたのでしょう。
 日記だけではなくて、千代子が書いた手紙にも「不退転の決意」がしっかり記されています。しかし、意外な抵抗が。実家の両親が「服装」で難色を示すのです。男装には「女を捨てることだ」と母親が絶対反対。もんぺには両親とも「士族の娘にふさわしくない」と反対。それでも結局、両親は娘の“冒険”を許します。想像力の限りを尽くして周到に準備を行ないますが、千代子の旅立ちの日には、水杯の儀式です。
 両親・婚家・気象学会……周囲すべての反対を押し切って、明治28年10月12日、千代子は富士登頂を始めます。夏の間のトレーニングの成果で、足取りは軽く山頂に到着できましたが、待っていたのは、過酷な環境と高山病と2時間ごとに観測という非人間的なスケジュールでした。
 特筆するべきは、この富士山頂での冬期観測という“一大事業”が、国の施策ではなくて、単なる個人の営みだった、ということでしょう。観測所は野中家が私財を投じて建設し、維持費もすべて個人持ちです。気象台は、「嘱託」という身分を到に与え水銀気圧計を貸与しましたが、冬期の低気圧の時には測定限界を越えて肝心なときには役に立たない代物でした(当時の世界の技術水準では仕方ないことだったのですが)。
 マイナス20度を超える寒気、疲労と睡眠不足と栄養不足、それらが二人の肉体を少しずつ削っていきます。さらに寒気で電池が凍って破裂し、風力計の電気盤が使用不能になります。気圧も風力も測定できなくなり、残るは気温計だけ。二人の気力も削り取られようとしています。全身がむくみ、体は動かなくなり、それでも二人は2時間おきの観測を続けます。一面に凍りついた観測所の中で。
 二人の夢に、二人の娘である園子が出てくるようになります。「迎えにきた」と。実は二人が富士山頂に籠った後、園子は肺炎で死んでいたのです。もちろん二人はそのことは知りません。しかし、二人は死を覚悟します。
 12月12日、“慰問”の客が訪れます。慰問と言っても、厳冬期の富士山では決死行ではあるのですが。訪れた人は、野中夫妻が瀕死の状態であることを知ります。到は観測が中断させられることを恐れて自分たちの病状を口止めしますが、慰問隊は下山して救助隊を組織します。大義は大切。命を捨てる覚悟も大切。しかし、大義のための犬死にはよろしくない、と。
 富士山測候所の歴史についてと同時に、明治に色濃く残る封建制度の上に薄皮のように科学性や合理性がかぶせられていった過程が本書ではゆっくりと語られます。野中家のプライベートな事柄でそれらは具体的にわかりますが、同時に紹介される当時の新聞記事などで、日本社会もまた少しずつ変容していったことが地に足を着けた描写で読者に伝えられています。「明治維新」と言えば「激動」というイメージがありますが、「時代」や「社会」はじつはそうやって地道に変化していくのでしょう。明治は遠くなりましたが、まだそれは平成としっかり“地続き”であることも感じられました。