「労働組合の活動家」というのもすでに死語になったかもしれません。
前世紀からの流れを見ると、政府に露骨に楯突いていた国労・日教組つぶしはみごとに成功し、現在政府が取り組んでいるのが地方公務員の自治労つぶしですね。こちらも着々と進歩がみられるようです。ところでそういった作業を熱心に遂行した国家公務員の組合は、いつ潰されるのでしょう?
【ただいま読書中】『水軍の日本史(上)』佐藤和夫 著、 原書房、2012年、3200円(税別)
記紀には、神武天皇・日本武尊・神功皇后など「海路を用いての戦い」が頻繁に登場します。
大化の改新前、日本各地に海人の氏族集団が存在していました。たとえば「海部(かいふ、あまべ)」という地名は全国に多くありますが、それは海人が集中して住んでいた地だそうです。吉備氏、物部氏、紀氏なども大和朝廷では水軍豪族でした。
唐と新羅に圧迫された百済を救援するために中大兄皇子が派遣したのは、陸軍27000、水軍10000の大軍でした。しかし白村江の戦いで大敗北。日本は百済の滅亡を座視し守りに入ります。これは私の想像ですが、動員されて大損害を受けた水軍豪族には、朝廷に反感を持つようになったものも多かったのではないでしょうか。ところで興味深いのは、日本が新羅を恐れているのに同時に「蕃国」と侮っていることで、これは「小帝国の思想」と呼ばれるそうです。新羅は新羅で、日本だけではなくて、唐や渤海との外交関係を安定化させる必要があって大変でした。唐は安禄山の乱などで疲弊し、新羅も王位の継承争いで乱れます。日本でも道鏡が出てきたりします。そういった時代を背景に「海賊」が登場します。
9世紀には新羅海賊が“活躍”します。活動の焦点となったのは対馬です。ここを本拠地にできたら、活動がとてもやりやすくなりますから。当然日本の海賊もそれに対抗します。日本海だけではなくて瀬戸内海でも海賊が盛んに活動するようになりました。朝廷は追討の命令を何回も出しますが国司は海賊退治には不熱心で、業を煮やした朝廷はとうとう俘囚や浪人を集めての「水軍」を結成するほどでした。10世紀には、海賊は地方豪族化し、朝廷側の地方豪族も軍として組織されるようになります。そこに藤原純友の乱が起きます。
純友の“乱”は失敗に終わりましたが、朝廷の海賊対策は「鎮圧」ではなくて「体制への組み込み」となりました。まともに戦っても勝ち目がないからでしょう。その集大成が平氏による「水軍」です。もちろん源氏の側にも水軍がありますが、その主力は伊豆~三浦~房総です。都を落ちた平氏軍は、水島海戦で木曾義仲軍を散々に討ちます。瀬戸内海は、平氏側と寝返って源氏につこうとする海賊たちとで、乱れに乱れることになります。一ノ谷にしても屋島にしても、源氏は陸戦を敢行しますが、同時に梶原景時は淡路島で水軍の整備も進めていました。瀬戸内海航路を平氏が押さえている限りその勢いは弱まらないのです。
このあたりの源平合戦の記述は「海から見た平家物語」となっていて、新鮮です。新しい視点を得ることができました。