【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

パスツールの業績

2016-02-19 07:25:13 | Weblog

 実はパスツールはパスツール研究所ではろくな業績を上げていないそうです。なぜならその研究所は「パスツールの偉大な業績」に対して、パスツールが老年に入ってからご褒美として与えられたものなのですから。もっと早くその研究所があれば、パスツールはもっとすごい業績を上げていたかもしれませんけれどね。

【ただいま読書中】『見えない敵との闘い ──パストゥール最後の弟子エルサンの生涯』アンリ・H・モラレ、ジャックリーヌ・ブロソレ 著、 瀬戸昭 訳、 人文書院、2015年、3000円(税別)

 1863年にスイスで生まれたアレクサンドル・エルサンは、出生直前に父を亡くしその名を受け継ぎました。音楽と自然科学に夢中(で女嫌い)の少年時代を過ごし、医学修業のためにドイツに旅立ちます。しかし、あまりに理論に片寄った教育に失望したエルサンは、1885年に実践的な医学教育を売り物にしていたパリに移ることにします。
 当時のパリは、衣服やヒゲの有無と形で職業を見分けることが可能で、乳母車や電話と消毒が普及し始めた時代でした。さらに、医学部にはごく少数ながら女子学生も進出していました。そこでエルサンは、紹介者を通してパストゥールと出会います。エルサンは非常に優秀だったらしく、パストゥールの下ですぐに頭角を現します。当時「肺結核」が少しずつ解明されていましたが、エルサンは結核菌をウサギに注射して「実験結核」を引き起こすことに成功し、「結核菌が病原であること」を証明したのです。これが学位論文(つまり、学生の仕事)なのですから、エルサンが周囲から注目され、パリ大学が学位だけではなくてメダルを授与した理由もわかります。もっともエルサンは「一つ仕事が済んだらもうそのことには興味を失って次の仕事にさっさと取り組む」タイプで、大学にメダルを取りに行くのもしばらく忘れていたそうです。パストゥールの業績は偉大なものとされ、パストゥール研究所が作られました。しかしパストゥール自身はすでに老いていました。「パストゥールの次の世代の時代」がやって来ていたのです。しかしエルサンは「パリでの拘束」に飽き飽きし、植民地に旅立つことを夢見るようになっていました。エルサンはサイゴン(極東のパリ)に向かい、極東航路で船医として勤務することになります。当時のベトナムは、ベトナム人とそこを植民地支配するフランスの対立、さらにベトナムを支配地と考える中国、海賊たち、が入り乱れて危険な場所でした。しかしエルサンは「探検」を趣味として行います。当時フランスが知っていたのはベトナムの海岸線だけでした。そこで奥地について明らかにすることがエルサンの願いになったのです(彼はずっとリビングストンに憧れていたそうです)。ベトナム全土とカンボジアを徒歩と小舟で探索した成果をパリに持ち帰り、エルサンは公教育省から次の探検のための資金を引き出すことに成功します。このままだと医学(とパストゥール研究所)から完全に離れてしまいそうですが、ペストがエルサンを引き戻しました。
 1894年香港や広東、福建でペストが流行し始めます。世界は震撼します。中世にペストは徒歩や馬や帆船でのろのろ進みました。しかしすでに蒸気船の時代。地球規模での大流行が容易に予想できたのです。しかもペストの正体はまだ未知でした。
 フランスは「パストゥールの弟子」を現地に派遣して研究調査することを命じます。そして、現地に一番近い“有資格者”がエルサンでした。
 香港は人口が半減していました。当時致死率96%のペストのせいと、ペストを恐れて人々が大量に逃げ出したからです。エルサンの到着3日前に北里柴三郎が香港に到着、すでに死体の剖検をして血液中に「ペスト菌」を発見した、とエルサンに伝えました。しかしエルサンはその標本を見て首を傾げます。血液ではなくてペストの特徴的なリンパ腺腫を調べるべきではないか、と。日仏の共同研究は成らず、それぞれが独自の研究をすることになります。香港の英国総督も日本には好意的でしたがエルサンには非協力的で、エルサンはなかなか剖検ができませんでした。しかし、エルサンは患者のリンパ腺腫から怪しい菌を発見、それを鼠とモルモットに接種してペストを引き起こすことに成功します。それを英国側から聞いた日本側も、以後はリンパ腺腫を調べるようになります。
 「北里柴三郎とエルサンのどちらが先にペスト菌を発見したのか」の論争が、ここから始まりました。北里は盛んにエルサンを攻撃しましたが、彼の論文では「ペスト菌はグラム染色陽性、または不明」となっている点が問題です。なぜなら(エルサンの報告通り)「ペスト菌はグラム染色陰性」なのですから。北里が最初に「これこそペスト菌」と思ったのは、二次感染などで混入してきた他の菌であった可能性が大(というか、ほぼ確実)です。皮肉なことに、北里が“優遇”されていたこともマイナスに働いています。北里は菌の培養に(当時の常識の)37度の孵卵器を用いました。エルサンは冷遇されていて孵卵器が使えなかったため室温(大体27~28度くらい)で培養していました。そして、ペスト菌の培養に最適の温度は実は「30度以下」だったのです。つまり北里柴三郎の培養では「ペスト菌以外」ががんがん増えていた可能性が大なのです。
 エルサンは香港の路上に鼠の死体がたくさん転がっていることに気づきました。そこから「ネズミが病気を媒介する」ことをエルサンは思いつきます。そこでエルサンは齧歯類も解剖して菌を探し始めます。また、病気のネズミと健康なネズミを同居させて、病気の方が先に死ぬが健康な方もすぐペストになって、体内にペスト菌が存在することを証明します。今から見たらそう大した実験には思えません。だけど、「ペストについて何もわかっていない社会」ではこういった実験はとてもインパクトがあったはずです。(ネズミと人の間を蚤が媒介することは、1898年にシモンが発見しました。これまた仰天の新発見でした)
 さらに土壌の調査も。エルサンは地中にペスト菌を見つけましたが、それには病原性はありませんでした。ただ、こういった「保存された菌」が、条件が揃ったらまた牙を剥くのではないか、という予想をエルサンは持っています。ただ、毒力が弱い菌はワクチンに使える可能性があります。エルサンはパストゥール研究所に呼び戻され、研究に没頭します。それが一段落すると、ハノイで新設医大の校長となります(大学病院は後に「エルサン病院」となり、1947年のハノイ解放でフランス人の名前はどんどんベトナム人に置き換えられましたが、エルサン病院はそのままとされました)。
 著者の一人は、ベトコン支配下の地域に単身入り、エルサンのお墓に参っています。エルサンは26歳で「行動しないのは人生じゃないよ」と言ったそうですが、著者もまた“行動”をしています。科学も医学もまだ荒荒しい時代に、けっこう荒っぽく行動していたエルサンの人生は、ずいぶんダイナミックなものに見えます。本人はそれにどこまで満足していたのかな? 本書では「エルサンは幸せな孤独の中で生きていた」と表現されているのですが……