最近朝刊の配達時間が少しずつ遅くなってきています。牛乳の宅配も配達日を減らす動きがあります。どちらも人手不足で困っているのかもしれません。かつては近所の商店が「御用聞き」に回るのはふつうでしたが、いつの間にか廃れてしまいました。こんどは以前からあった宅配サービスも滅びていくのかもしれません。20世紀に育った人間としては、かつてふつうにあったものがなくなっていくのは、寂しい思いがします。自分が消えていくような気がするものですから。その代わりに登場するであろう新しいサービスには期待も感じるのですが。
【ただいま読書中】『「自動運転」が拓く巨大市場 ──2020年に本格化するスマートモビリティビジネスの行方』井熊均 編著、 日刊工業新聞社、2013年、1800円(税別)
1970年代にスーパーカーブームがありました。その頃人気のフェラーリ512BBは360馬力、ランボルギーニ・カウンタックは330馬力、ランチャ・ストラトスは240馬力。当時のカローラ・クーペは110馬力。たしかに“スーパー”カーだったのです。ところが最近のトヨタ・マークXは320馬力、レクサスLS460は380馬力です。現在の日本の高級車は、馬力の点では1970年代のスーパーカーに匹敵、あるいは越えてしまったのです。さらにガソリンエンジンの燃焼効率を高めることで燃費もぐんと向上しています。しかしそれもそろそろ理論的な限界に近づいています。そこで、バイオエタノール、水素、ハイブリッド、電気、燃料電池などの新技術の開発がどんどん行われているわけです。
かつて日本の若い男性は「女」「酒」「煙草」「車」で生きていました。しかし、1990年代から、乗用車の販売台数が伸びなくなります。また内訳では、小型乗用車(特にセダン)の売り上げが減ってきました。私が初めて車を買ったのは1980年だったか81年ですが、当時の路上では「白のセダン」が主流だった記憶があります。私のようなハッチバック派は少数派でしたね。時代の違いを感じます。自動車市場の拡大が止まった原因としては「バブルの崩壊(家計の逼迫)」「郊外化の終焉(都心回帰)」「ユーザー意識の変化(快適性よりも実用性重視)」などが考えられます。そういった社会で車が生き延びる方法として、「公共交通機関」が一つ考えられています。バス停からバス停にバスを使うように、カーシェアリングで定点から定点に自動車を運転して移動する(到着したらそこに乗り捨て)というシステムです。公徳心が相当必要になりそうな気もしますが。
自動車運転に関する新技術には「エコカー技術」「車輛制御技術」「自動運転技術」があります。特に「自動車の使い方そのものを変える技術」は「市場」を創造する力を持っています。だから自動車会社は熱心にその開発を行っているわけです。そして、それを受けいれる社会の側にも変革が必要です。
「シャッター通り」がそうなった理由はいろいろあるでしょうが、その一つが「駐車場がない」ことでしょう。だったら自動運転の車を「準公共機関」として受けいれることができたら、シャッター通りが再生できるかもしれません。たとえば自宅で「○○商店まで」と連絡すると小さな無人車がやってきます。乗ると勝手に○○商店の前まで行って、降りると勝手にどこかに行ってしまいます。買い物が済んでこんどは「自宅まで」と連絡すると、さっきとそっくりの車が店の前までやって来て自宅まで連れて帰ってくれる、というシステムです。もちろん保育所への送り迎えとか、会社への通勤(会社が遠いのなら最寄りの駅まで)とか、さまざまな日常的な使い道があります。「24時間いつでも使える」となると、マイカーを持つ必要はなくなります。生活の快適度は高まりそうです。
本書では、2020年の東京オリンピックを「自動運転のマイルストーンに」と提唱しています。本当にそうなったら「未来社会」が私の目の前に登場するのかもしれません。楽しみです。