鎌倉で「混雑時には迷惑な食べ歩きをするな」という条例ができたそうです。
「迷惑」はもちろん困りますが、今回私が気になったのは「ことば」です。
私は「食べ歩き」というと「各地あるいは各店を巡っていろいろ食べること」と思っていて(「世界各地を食べ歩く」とか「名店を食べ歩く」とかの使い方です)、「食べながら歩く」「歩きながら食べる」はそのままの言葉で言っていました。だから「食べ歩きは禁止」とか言われると「じゃあ、鎌倉では一箇所の店でしか食べてはいけないのか」なんて難癖をつけたくなります。
変な語感になるかもしれませんが、制限されるのは「歩き食べ」では、駄目です?
【ただいま読書中】『侏儒の言葉』芥川龍之介 著、 文芸春秋、2014年、460円(税別)
「軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似ている」とか「人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのは莫迦々々しい。重大に扱わなければ危険である」などで知られた本です。ただ、本書を読んでいて驚くのは「全然古びていない部分」があること。もちろん明治〜大正の作家ですから、時代は感じます。だけど、本書の文章が示す本質的な部分には、現代にそのまま通じる部分がしっかりあります。ものを見る目がある人は、きちんと見ているんだな。現代の作家が書き散らしている作品で、100年後に「これは面白い」と言ってもらえるものが、どのくらいあるんだろうか?
もちろん本書の亜流の本を書くことは、いくらでも可能です。ちょっと人とは違った視点からものを見て、ちょっと人を驚かせるような表現をすれば、書けそうな気はします。書けそうではあるけれど、本書を越えるのは困難だろう、と私は予想します。本書では「斜に構えた姿勢」もありますが、著者は基本的に「世の中でまかり通っているおかしいこと」に正面から対峙しています。その上で(まるで柔道のように)ちょっと重心をずらして巨大な相手をうっちゃってしまう。それがきれいに決まったら爽快です。この「正面から対峙」の姿勢が感じられる文章は、1世紀でも平気で生き延びるのでしょう。
さて、もしも著者が今生きていたら、どんな『侏儒の言葉』を述べるでしょうか。「世の中にのさばっているおかしいこと」は、明治と変わらず現代にもたっぷりございますから。