【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

十連休

2019-04-27 06:53:00 | Weblog

 世間では十連休だそうです。私は、前半に2連休、後半に3連休がありますが、あとは仕事です。だけど、連休があるだけで嬉しい。これが同じ「10日間に5日の休み」でもたとえば「奇数日が休みで偶数日は仕事」の「飛び石連休」だったらちょっといらいらするかもしれません。
 そう言えば私の子供時代には「飛び石連休」という言葉がありましたが、もう死語でしょうね。若い人には意味がもうわからないかな?(5月の3日と5日が休みで、2日4日6日は学校(仕事)の状態を示します)

【ただいま読書中】『ベルギー大使の見た戦前日本 ──バッソンピエール回想録』アルベール・ド・バッソンピエール 著、 磯見辰典 訳、 講談社(講談社学術文庫)、2016年、1100円(税別)

 1921年(大正十年)著者はベルギー大使として日本に到着しました。到着早々、日本の美しさに著者は魅了されます。ただ、そこから十八年も日本勤務が続くとは、誰も予想していませんでした。ただ、ベルギーと日本の国交が樹立した1866年(慶応二年)からの55年でベルギーの公使は5人だけだったので、ベルギーはじっくりと人間関係(と国の関係)を築こうとする姿勢だったのかもしれません。本書にある当時の大使たちの交友関係を見ていると、大使は「国王(または皇帝)の代理人」という位置づけの意識で行動しているようです。ここで重要なのは、当時のベルギーが欧州随一の親日国だったことです。
 牧野子爵と原首相との会談の時、著者は首相の真剣な表情に心打たれます。しかし翌日、原首相は東京駅で暗殺されました。原首相の、近代的な議会と国際協調を重んじる態度を暴力的に消し去ったこの行為が、後の軍部の台頭を招く遠因になった、と著者は考えています。また、翌年のワシントン会議での9箇国条約締結は、結局、日本人が誇りにしていた日英同盟の撤廃につながります。
 大正天皇の病状が思わしくなく、裕仁皇太子が摂政に。明治の元勲、山縣有朋元帥と大隈重信公爵が相次いで亡くなります。時代は動いています。
 「日本の貴族」を著者は「公家」と「大名」に二分します。さらに、明治維新以後の「新貴族」には「町人(ブルジョア)」と「さむらい」も含まれます。「爵位が上がる」ことや「臣籍降下」などについても親切な解説がされています。
 1923年5月、地震が続きました。初夏には精進湖の水位が異常に下がります。イタリアでは「湖の水位が下がると大地震が起きる」と言い伝えられているそうですが、日本ではこのことはすぐに忘れられてしまいました。夏、著者一家は避暑のため逗子に行きます。井戸が涸れていましたが、他には問題はありませんでした。そして9月1日、大地震が勃発。その瞬間、一家は海岸で友人たちとサーフィンを楽しんでいました(ハワイから日本にこのスポーツが入ってきたばかりだったようです)。激しく地面が揺れ皆ショックだったようですが、続けざまにこんどは津波が。一撃の後、海水ははるか沖合まで引いていきます。次があることは明らか。一家は必死で竹林に逃げ込みます。滅茶苦茶になった別荘からは、横浜が大火災を起こしていることが遠望できました。
 東京からの避難者が「朝鮮人が放火・掠奪・暴動をしている」という噂も運んできます。著者を含む外国人グループは一応夜警を立てましたが、特に何も起きませんでした。周囲の日本人たちは、自分の被災したのに、外国人に親切を示し援助をしてくれます。やっと東京に戻ってベルギー大使館が倒壊も消失もしていないことを確認。庭には避難者が満ちていましたが、日本外務省が食料などを差し入れてくれていました。そして外国からの援助が続々到着。そこにちゃんとベルギーからの船があることに著者は安堵します。
 1924年、著者は半年の休暇を与えられます。3年勤務したら半年の休暇ですか。ちょっとうらやましいな。
 著者の次女ベッティは日本舞踊を熱心に稽古して、けっこう有名になりました。著者が「ベッティさんのお父さんですか」とか著者の長男がパリで出会った日本人に日本語が上手いことを驚かれて名前を言うと「ああ、ベッティさんのお兄さんですか」と言われたりするようになっています。
 26年クリスマス、大正天皇が崩御。葬儀に関していろいろ興味深いことが書いてありますが、戸外で神事が行われたときの気温が氷点下7度。儀礼上外套は着ることができませんから、参列者は皆震え上がった、というのは、こちらまで寒くなりそうです。
 年に四回、外交官は天皇の午餐会に招待されましたが、コースは日本料理と決まっていたそうです。不妊から日の浅い大使は箸の扱いに苦労していたそうです。また、天皇だけはテーブルが別だったため、大使同士は会話ができましたが、天皇だけは沈黙を守っていたそうです。
 1931年、著者の長男と次女が結婚します。ただし長男は8月にベルギーで、次女は9月に東京で。めでたい話ですが、同時期で地球の反対でとは大変でしたね。そして、二つの結婚式の中間に、満州事変が勃発。国際社会は、数年前のソ連による外蒙古併合は看過しましたが、満州事変については介入することにしました。このことについて、著者は個人的意見を封印します。ただ、もっと良いやり方があったはず、という思いは隠せません。
 日本は国際連盟の“干渉"に激怒、その行動は加速され、32年には上海事変が起きます。それが収まった頃、国際派の穏健派と目される團琢磨男爵と井上準之助氏が相次いで暗殺されます。さらに、五・一五事件、二・二六事件が続きます。対外的には、リットン調査団、日本の国際連盟脱退。これらはすべて、お互いに関係しながら「歴史」を動かしていきます。
 著者は極東問題、特に日中紛争に関してのインタビューを受けますが、そこで「日本悪者説」は唱えませんでした。これが特定の意見を持つ人の逆鱗に触れ、「日本に買収された」などと誹謗中傷の新聞記事を書かれることになります。「外交官として公正であろうとする」著者の態度がそのままインタビューに出ただけだろうと私には感じられますが、著者は心の根底では日本びいきになっていたのかもしれません。
 「愛国者」ということばがありますが、外国人で公正をベースとしつつそれでも日本を愛する人のことは、なんと呼べば良いのでしょうねえ。日本では今から「移民(法律上は移民のような存在?)」がどんどん増えるでしょうが、彼らの中に愛国者(のようなもの)をどうやったら増やすことができるのでしょう? それを考えて準備しておくことは、日本の未来に大きな影響を与えそうです。