【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

むかむか

2010-12-21 18:46:19 | Weblog
たまにテレビタックルなんかを見ていると、私はむかむかしてきます。それぞれの主張の内容以前に、相手の言い分に耳を貸さない/自分の言い分だけ大声でがなり立てる/相手の話を途中で遮ってきちんと最後まで言わせない、といった態度が嫌いなのです。
私は小学校で「人の話はちゃんと聞きましょう」と教わりましたが、ちゃんと小学校で学んでいない行儀の悪い人たちが日本の“オピニオン・リーダー”なの?

【ただいま読書中】『胃の病気とピロリ菌 ──胃がんを防ぐために』浅香正博 著、 中公新書2077、2010年、740円(税別)

胃の中は、胃酸によって強酸性(pH1~2)で、かつ強酸性の環境が一番得意なタンパク分解酵素ペプシンが存在することで、生物やタンパク質には過酷な環境となっています。そんな過酷な環境に耐えることができる細菌などいない、が医学の“常識”で、たまに胃粘膜に最近の姿を見つけても「それは外界から標本が汚染された」と説明されていました。それに疑問を持ったのがオーストラリア王立パース病院に勤務する病理医ロビン・ウォーレンです。彼はスピロヘータ用の染色法を応用するとそれまで見えなかった螺旋状の細菌が特に慢性胃炎の標本に多く見えることに気づきました。ほとんど誰にも相手にされない“新知見”でしたが、ウォーレンはくじけず研究を続けます。協力することになった研修医バリー・マーシャルは、その菌の培養に取り組みます。失敗続きでしたが、復活祭の休暇で偶然ふだんより長く置いておいたプレートに細菌のコロニーができたことにマーシャルは気づきます。次はその菌が病気を起こすかどうかの動物実験。ところがこれも失敗続きです。豚を使ったのですが、全然豚の胃で生えてくれないのです。ついにマーシャルは、我が身を実験台に人体実験に踏み切ります。菌の培養液を飲んで1週間、めでたく(?)急性胃炎が発生します。そしてそこには“その細菌”がうようよと。
ピロリ菌は、胃炎を起こすだけではなくて潰瘍も起こします。日本では胃潰瘍の75%、十二指腸潰瘍の95%がピロリ菌による、と言われているそうです。さらには胃がんも。世界各地の研究によってそのことがわかり、1994年にはWHOによってピロリ菌は「発ガン物質」の公式認定を受けています。
ではピロリ菌の感染経路は? 実はわかっていません。ただ、高齢者には高率でピロリ菌が見つかり、若年者では低率であることから、環境(たとえば汚染された水)から感染したのではないか、と言われています。なお、鍋を一緒につついたりキスをするくらいでは感染しないそうです。ああ、よかった。
現在のUSAは胃がんが非常に少ない国ですが、20世紀初めには胃がん大国でした。それががくんと減った原因は、なんと「電気冷蔵庫」。この文明の利器の普及によって、塩漬けや燻製など、胃がんとの関連が強いと疑われている食品摂取量が減ったことによって胃がん発生が減ったのです。しかし、日本を含む東アジアでは、電気冷蔵庫は胃がんを減らしませんでした。それは、もともと塩分摂取が多いこととピロリ菌感染が多いことによるのではないか、と推定されています。(ピロリ菌感染がある場合、食塩摂取量が多ければ多いほど胃がん発生率は高くなります)
日本での胃がん罹患率は減少傾向にありますが、これはあくまで「率」であって、「胃がんによる死者の絶対数」は減少していません。団塊の世代が胃がん世代となった今、これからが胃がん対策の本番だ、と著者は力説します。ただ、そのピークを乗り切れば、あとはピロリ菌が少ない世代が人口の主力となりますので、何もしなくても自然に胃がんは減少するはずです。日本政府は、できたら「なにもしない」で乗り切りたいようですが、胃がんを早期に発見したり、あるいはいっそヘリコバクター・ピロリを徹底的に駆除することで胃がんを予防する方が、結局進行胃がん対策に大金を注ぎ込むよりは“お得”と本書では主張されています。私はその意見に賛成です。


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正直者

2010-12-20 18:50:42 | Weblog
世界には、正しいことを述べる人も、少しは必要です。全員がそうだと、ちと暮らしにくい世の中になってしまいますが。

【ただいま読書中】『エッセンス・オブ・エッセイ ──エッセイスト・クラブ賞受賞作 選文集(上)』日本エッセイスト・クラブ 編、PHP研究所、1981年、1300円

日本エッセイスト・クラブの創立30周年を祝って出版された、エッセイスト・クラブ賞の受賞作品を紹介する本です。本書には42編が収載されています。
受賞作品ばかりですからそれなりに質の揃ったものが並ぶのは当然と思いましたが、通読してそのバラエティの豊かさには驚きました。私がふだん書く才気の匂い立たない文章をなんとかできないか、という目論見も少しはあったのですが、これだけバラエティがあると真似する意味もありません。せめて「おかだの味(あるいはにおい)」を不愉快にならない程度に濃厚にしてみるか、と思いついたくらいです。
「エッセイ」を分析したら、題材(何について書いてあるか、何について書いてないか)・文体・ニュアンス・仮名遣いなどに外形的には分解できるでしょう。その多くは「写生」「写実」と一言でまとめられるかもしれません。そこで当然私は正岡子規を連想します。エッセイの多くは短いものですが、その「短さ」と「写生」という共通点が見えますから。というか、長々とことばで“写生”するのなら、写真を一枚撮った方が早いですよね。
本書での私の一押しは「きみ、それでジャガイモができるかね」(小松恒夫・『百姓入門記』より)です。にわか百姓を厳しくしかし優しく指導するお師匠の人間像とその人に師事する著者の心と体の動きがこちらにもダイレクトに伝わってきますし、柔らかい腐葉土の匂いがページから香ってくるような気がします。
外がきれいに晴れた日に読むのに良い本だと感じました。単に私の感覚がそう主張しているだけですが。




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ゲーム

2010-12-19 15:43:17 | Weblog
ヴァーチャルリアリティとか体感ゲームとかありますが、「ヘレン・ケラー」が楽しめるゲームってたくさん出ています? それこそが本当に「体感」できるゲームってことになりそうな気もするのですが。

【ただいま読書中】『海水浴と日本人』畔柳昭雄 著、 中央公論新社、2010年、2200円(税別)

「因幡の白兎」で、だまされた兎は潮を浴び風に吹かれて苦しむことになります。しかしそれは逆に、昔の日本では「海水浴」には医療的効果がある、と信じられていたことを示しています。中世には「潮(汐)湯治」「潮湯」「潮浴(しおあみ)」などということばがありました。温泉につかるように海水につかる健康法または宗教的な儀式です。
西洋でも18世紀中頃から、産業革命で進行する環境汚染に対して「新鮮な海風や海水を浴びるのは健康に良い」という考えが広がり、1740年に英国初の海水浴場がイングランド北東部のスカーバラに開設、54年には医師R・ラッセルがブライトンに海水浴場を開設します。ラッセルは「Sea Bathing」という概念を提唱し、潮風に吹かれたり海水に体をつけたり海水を飲むことに医療的効果がある、と主張しました。1794年にはドイツ初の海水浴場が誕生しました。1797年ドイツ2番目の海水浴場には、世界初めての海浜療養施設(サナトリウム)が併設されました。
お雇い外国人によって西洋的な「湯治」としての海水浴が日本に持ち込まれましたが(その代表がヘボンやモース)、スポーツ(またはリクリエーション)としての海水浴(海で泳ぐ)も船乗りによって日本に持ち込まれました。慶応年間に横浜にいた英国人ワツソンが海水浴を毎年楽しんだのが、横浜富岡海水浴場の起こりだそうです。
明治中期に軍国的な風潮が盛んとなり、廃れかけていた(川での)水練が復活します。しかし、隅田川の水練場は水質悪化のため海へ移っていきました。それによって、まずは学生レベルで「海水浴場」と「水泳」がしっかりと結合することになります(「臨海学校」のご先祖様?)。明治39年には、大阪毎日新聞社は南海鉄道と組んで浜寺海水浴場を解説し、合わせて浜寺水練場を日本体育会とともに開設しています。こうして、一般人レベルでの「(運動としての)海水浴」が日本に定着していきます。
湯治場としての側面も発展します。海水浴場に隣接して旅籠や旅館が増え、さらに「海水温泉旅館」という海水をくみ上げて湧かす潮風呂を備えた旅館も登場しました。これだと冬場でも稼働できるので効率的です。鉄道会社も沿線の海水浴場にこぞって海の家を建設したり新たに海水浴場を開設しました。新聞社も、購買者サービスの一環として、海水浴場や海の家を開設します。大阪毎日新聞には「海国日本の思想を普及するため」という崇高な意図がありましたが、「ブーム」ってあまり崇高なものには乗らないんですよね。人々は娯楽として「海水浴」に押しかけ、「立錐の余地もない」「芋の子を洗うよう」の状況となります。
ブームの前の海水浴は要するに湯治ですから、裸(あるいは、褌や腰巻き姿)で水に浸かるのがふつうでした。しかしブームで女性(特に上流階級の人)が来るようになると「風紀」が問題となります。彼女らは、当時のヨーロッパでの海水着にどことなく似た、全身を覆う海水着を着用しました。さらには「男女混浴禁止」の海水浴場も各地で登場します(明治21年の神奈川で始まり、大正年間まで継続したそうです)。水着のファッションは変遷しますが、写真を見ていると頭がくらくらします。ここは本当に日本か?と。いやあ、レトロですわ。
西洋からの(健康療法としての)「海水浴」、日本に古来からある民間療法としての「潮湯治」、これらに注目する医者もいました。有名どころとして、松本順や後藤新平などが紹介されています。
大正時代には各地に現在のような形の海の家などが附属する海水浴場が普及し、昭和になると臨海学校が各地で行なわれるようになります。これは日本の都市化とも関係があります。都市の子供は、水質汚染などによって、わざわざ課外授業の形でないと海水浴がやりにくくなってきていたのでした。
こうして、国民の娯楽として定着した海水浴ですが、1985年をピークに海水浴客は減少傾向だそうです。著者は建築学の立場から海の家を研究していて“この道”に踏み込んでしまったのだそうですが、私としてはまったく知らなかった分野の話をまとめてもらって、興味深く読みました。先達はありがたいものです。



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掃除

2010-12-18 18:10:03 | Weblog
私が子どもの頃、サッカーの日本リーグでは「スイーパー」ということばが盛んに使われていました。お掃除屋のプレイヤーですが、守備陣の一番底にいて、どんなボールでもゴールの真ん前に立ちはだかってはじき返してしまう、という、義経を守る弁慶、といった役割の人です。今だったらオフサイドトラップはどうかけるんだ、が気になりますが、あの頃にはプレイスタイルは今よりシンプルでしたし(ワンツーパスとかダイレクトプレイとかバイサクルシュートとかはまずお目にかかりませんでした)、グラウンドも整備が悪くて(日本リーグをやっていた県立競技場のグラウンドは芝生がでこぼこのハゲチョロでした)、あまり高度な理論は実践できなかったでしょうから、それはそれでよかったのでしょうが。

【ただいま読書中】『サッカー戦術の歴史 ──2-3-5から4-6-0へ』ジョナサン・ウィルソン 著、 野間けい子 訳、 筑摩書房、2010年、4000円(税別)

著者は「戦術(タクティックス)」を「フォーメーションとスタイルの組み合わせ」と定義します。さらにサッカーに含まれる“矛盾”、「美/勝利」「技術/フィジカルの強さ」の組み合わせとバランスが著者には問題となります。
はじめは混沌で、ルールはありませんでした。当然戦術などありません。ルールが整備され、1870年代には選手の配置が意識されるようになっていましたが、現代に通じる「戦術」がギロンされるようになったのは1920年代後半からです。
19世紀後半にスコットランドから「パスゲーム」が登場したときは衝撃だったそうです。それまではボールを持ったフォワードはひたすら突進し他のメンバーがそれを護衛するように周囲に密集する(ドリブルゲームと全員攻撃)、がイングランドサッカーの標準だったのですから。かくして1880年ころには「2-3-5」のピラミッド型の配置が試されるようになります。それに対して“保守派”は「守備要員を置く」こと自体に反対をします。今からは考えられない議論ですね。
南米では“別のサッカー”が生まれていました。凸凹の路地裏で遊ぶ少年たちによる、テクニック重視のサッカーです。1924年パリオリンピックでは、「ボールでチェスを指す男たち」ウルグアイ代表が金メダルを取りヨーロッパに衝撃を与えます。1925年には(得点を増やして試合を面白くするために)オフサイド・ルールが改定され、オンサイドにするために必要なゴールとボールの間の守備側の人数が3人から2人に減らされます。こうして、堅い守備/柔軟な攻撃、個人技/組織、のバランスを探る「戦術」がもてはやされるようになったのです。
アーセナルは1930年頃「3-2-2-3(W−Mフォーメーション)」を採用します。敵を引き込みその後ろにできたスペースを利用してカウンターアタックをしかける戦術で大成功です。ただし、それを真似した他のチームはことごとく失敗しました。戦術にふさわしい選手が配置されていなかったのですから。その結果、守備に偏重したプレイばかりとなり、英国サッカーは衰退します。
ソ連では「W−M」でサッカーの歴史が始まり、ゆっくり「4-2-4」へと進化しました。さらに彼らが見せた自在なポジションチェンジを英国では「全体主義国の歯車の動き」と評し、そこから学ぼうとはしませんでした。そこへハンガリーが「攻撃的ミッドフィルダー」を投入してイングランドを惨敗に追い込みます。イングランドから見たらセンターフォワードの選手がずっと下がり目でプレイをするために、守備が対応できず自由にプレイをさせてしまったのです。
戦術をチームに徹底するのは監督です。本書では監督の重要性(と世間での過小評価ぶり)が繰り返し説かれます。
ソ連のマスロフ監督は「4-4-2」システムを採用しますが、それは中盤でボールと敵を追い回すプレッシングで、後日オランダで有名になったトータル・フットボールの原形でした。イタリアでは(悪名高い)カテナチオ(かんぬき)システムが使われます。
そして1960年代、オランダではプレッシングと前に出るスイーパーというアイデアの組み合わせにクライフという才能を得ることでトータル・フットボールが出現します。これは「全員が攻撃する」だけではなくて「全員が守備をする」フットボールです。
先月26日に読書した『砂糖をまぶしたパス ──ポルトガル語のフットボール』でも取り上げられていた1970年メキシコW杯、本書では月面着陸と絡めて語られます。その時の「素晴らしい才能の選手をピッチに放り込んで勝手にプレイさせる」スタイルは、1982年に(ジーコらの「黄金の四人」のブラジルチームの失敗で)“死”にます。すでにこの時代には、システムを無視したフットボールは成立しなくなっていたのです。
ただ著者はがちがちのシステム論にも警鐘を鳴らします。以前私も聞いたことがある「シュートはパス3回以内に打ったら成功する確率が高い」という説も、統計的にその根拠が怪しいとページを割いて詳しく述べています。私は「固定したシステム論で勝てるほどフットボールは甘いものではない」と直感的に著者の姿勢を支持してしまいますが。結局攻撃と防御は、戦術と対抗戦術、それに対する戦術、という繰り返しで進歩(変化)し続けるものなのでしょう。そしてそこにアクセントを付けるのが、少々のシステムなんか突破してしまう“スーパースター”。

本書は、固定的に語られやすい「フォーメーション」を“ソフトウエア”として語り、同時に、イングランドサッカーへの愛情(と、かつての栄光を失ったことへの哀切の気持ち)を、フットボールの戦術の進化の歴史を追うことで告白しようとする、ちょいときわどい地点への“パス”を狙った本です。すぐに話がイングランドに行くのが頬笑ましく読めますが、同じように日本のサッカーについて書こうと思ったら、あと百年の歴史の蓄積が必要かな。



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法人税減税で雇用促進?

2010-12-17 18:17:46 | Weblog
政府の目論見は無理筋だろう、が私の第一印象です。もしその目論見が成立するとしたら、そのためには「企業は人を雇いたいのに金がないから人を雇えない」「金がない主原因は重税である」の二つの条件が満たされなければなりません。その場合だけ「重税緩和」→「金に余裕」→「雇用創出」の「→」が成立するでしょう。付帯条件として「“そういった企業”が日本の多くの部分を占めている」と「減税処置が恒久的に続く(別の増税などが持ち出されない)」も必要ですが。
で、日本の景気が悪い(雇用環境が悪い)のは、法人税が重税だから?
たとえとして極論になるかもしれませんが、たとえば私が外国人の金持ちで日本で起業しようとしようとしていたとします。でも、それはとてもやりにくいと感じるんですよね、というか、この国ではやりたくないだろうな、とさえ感じてしまう。で、それがやりにくいのは「法人税が重たすぎるから」でしたっけ?

【ただいま読書中】『怒りの葡萄』ジョン・スタインベック 著、 大久保康雄 訳、 新潮社(世界文學全集32)、1962年

殺人で7年の刑を宣告され、4年で仮釈放となったトム・ジョードは故郷を目指します。しかし大恐慌の嵐と、異常な日照りによる凶作が州全体を荒らしていました。地主は小作人を追い出して、「トラクター」による大規模経営を目指しています。
ちょっと不思議な構成の本です。まず1章かけて舞台設定や時代背景や人々の生活に関する客観的な描写が詳しく述べられます。次の章で登場人物たちが、長い会話を行ないます。次の章でまた舞台設定などの解説。そしてその次の章ではその舞台の上でまた登場人物が長い会話。まるで、舞台脚本の地の文章とセリフの部分を分割してそれぞれ散文で記述し、そのワンセットが終わるたびに場面を転換して同じことを繰り返す、という趣です。読者は、まずはブリーフィングを聞いた上で芝居を見る、といった感じで、理解と劇的効果の鑑賞とが両立する、というお得感満載の作品となっています。
小作人たちはまとめて強制的に追い出されます。「西のカリフォーニアにでも行ったらどうだ。あそこではオレンジ(あるいは葡萄)が摘み放題だぞ」と。家族と再会したトムは、皆も故郷を捨てる気であることを知ります。
会話の厚みが半端ではありません。もちろん本書は「作品」ですから、言い間違いとか文法上の間違いなどは排除された説明的で“正しい文章”で構成された、たぶん現実世界には存在しない会話文ですが、それでも「リアル」です。ためらい、心の揺らぎ、腹の探り合いなどが、まるで複雑なつづれ織りのように細かく読者の前に展開されます。行動の描写でもそうです。久しぶりの兄弟のぎこちない再会での握手のシーン。「トムが手を出した。アルの手が飛び出していってそれを握った。ふたりのあいだには愛情が流れた。」。ああ、なんてシンプルで印象的な文章でしょう。
人々は、豊かな生活を夢見てカリフォーニアを目指します。しかしカリフォーニアには人々が集中することで混乱が生まれています。1849年に、ゴールドラッシュに乗り遅れた人たちが続々押し寄せることで起きたのと同種の混乱が。しかも今回は「金」は存在しないのです(本書では「仕事へのゴールドラッシュ」と書かれています)。人々は「何でもやる」と申し出ます。受ける側は労働を安く買いたたきます。安い賃金に文句は言えません。“代わりの手”はいくらでもあるのですから。ストをすれば「アカ」呼ばわりです。
トムたちが流浪する原因となった自然の暴威に対してカリフォーニアの自然は対照的に瑞々しく美しく、人間の所業もまた醜さと美しさが対照的に描写されます。虐げられた人々は助け合いあるいは足を引っ張り合いながら生きていきます。人々の“旅路”は、小説というより神話に近いように私には感じられました。
本書を読んでいて、なぜか『大地』(パール・バック)を読みたくなってきました。なぜだろう?


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地産地消

2010-12-16 18:39:46 | Weblog
家内と隣町をぶらぶらしていたら、JAの隣に小さな店を見つけました。見ると午前中しか営業しない、なんて傲慢なことが書いてあります。ぎりぎり間に合うので入ってみたら、要するに近隣の農家が作物を持ち寄って売っている売店でした。どの野菜も新鮮です。なにしろその日の朝収穫したばかりのものばかり。で、人気の店で、すぐに売り切れてしまうから、営業時間も短い、ということでした。家内もすっかりファンになって、しょっちゅう出かけるようになりました。なんでも朝一番には、町内のプロ(飲食店のオーナーなど)とおぼしき人が行列をつくってオープンしたらすごい勢いで突入していくそうな。ときには生産者と直接話もできるそうです。たまには「この店、なんだろう?」と入ってみるものですね。

【ただいま読書中】『朝鮮幽囚記』ヘンドリック・ハメル 著、 生田滋 訳、 平凡社(東洋文庫132)、1969年、2000円(税別)

1653年8月、バタビアから台湾を経由して長崎を目指していたデ・スペリウェール号(乗組員64名)は激しい暴風で難破し36人が生き残りました。流れ着いたところは、シナでも日本でもなく、ことばが全然通じません。やがて軍隊がやってきて生き残った乗組員は囚われの身となります。そこはコレー王国(今の朝鮮)ケルパールツ島(済州島)でした。やがて言葉が通じるようになった総督は「捕虜を国外に出すことはできない」と宣言します。扱いはひどいもので、一同は厳重に警護された建物に押し込められ、米と小麦と塩は支給されるが副食はなし、という食糧事情でした。それでも彼らはなんとか生きのびます。
国王からの呼び出しが届いたのは翌年になってからでした。乗員はソウルに護送され、そこで「外国人を国外に送り出す習慣はないから、一生ここで過ごすように」と命令されます。しかし二人の乗員はタルタル人(おそらく清朝の使節)の行列に直訴を行なって大混乱を引きおこし、その結果獄死します。国内の強硬派は、また国使を相手に混乱を起こす可能性があるとしてオランダ人たちを全員殺すことを主張します。しかし国王やその弟などの穏健派は、全羅道の砦への隔離を行ないました。国王からの給付で最低限の食料(米、塩、水)は与えられますが、あとは強制労働や物乞いで得る生活が続きます。
国の制度がいろいろ紹介されます。各州は7年ごとに兵を提供して都で警備に当たらなければならないとか、主な装備は、太刀・弓矢・槍・火縄銃で、歩兵は自弁で50発分の火薬と弾を準備しなければならず、それに違反すると裸の尻を10発棒で殴られる、とか、奴隷が全国民の半分いるとか、なかなか興味深いことが列挙されます。そのなかで私の目を引いたのは「重罪」の項でした。そのトップが「国王に対する叛逆」と「王国からの逃亡」です。どちらも一族の財産没収と根絶やしとなる重罪なのです。だとすると、たとえ漂着であっても、その国にいる外国人が「王国から逃亡」したいと言うのは、非常識(言うだけで死刑になってもおかしくない)ということになります。
かつてこの国は豊かだったが、日本とシナに荒らされてしまい、凶作の年には食糧事情が本当に逼迫する、と著者は述べています。さらにシナへの貢ぎ物が国を圧迫します。人々は、親切で信仰心が篤いが、商売では人を欺すことを手柄とする風潮があるそうです。貿易相手は、清と(対馬の)日本人だけ。
オランダ人たちを監督する総督は次々交代します。良い人もいましたが悪い人(オランダ人たちに強制労働を課したり自由を奪おうとする人)の方が多いようです。彼らはこのままではお先真っ暗だと、物乞いに全力を尽くして蓄えを作り、船を入手しようとします。1666年ついに小さな船を入手。一同(当時16人に減っていました)のうち連絡が取れた8人は脱出を決行します。目指すは日本(の長崎)。しかし、現在地は分からず、海図もありません。まったく運試しの旅です。運良く彼らは五島列島に漂着。そこから日本船で運ばれます。到着したのは長崎の出島。13年ぶりに彼らはやっと同胞の姿を見ることができたのでした。長崎奉行は彼らがオランダ人に偽装したポルトガル宣教師ではないかと疑い吟味をし、対馬を通して朝鮮にも問い合わせをしています。朝鮮側も驚きます。オランダ人が脱走したというニュースは報告されていなかったのですから。(罰せられるのを恐れて、現地の責任者が中央にまずいことを報告しない、は、別のことが著者によって報告されています。朝鮮では当時けっこうあったことなのでしょう、というか、圧政の体制では良く起きることです) で、日朝の交渉の結果、残存していたオランダ人8人中、残留を希望した一人を除く7人は日本に引き渡され、さらに出島に送られます。まあ、ハッピーエンドと言って良いでしょうね。
著者らは1667年10月に長崎を出帆、アムステルダムに帰着したのは1668年7月のことです。
著者らの遭難まで、ヨーロッパでは朝鮮の認識はほとんどありませんでした。それまでは半島か島かさえはっきりしていなかったのです。こうして「朝鮮」も(西洋の)「世界史」にデビューをした、と言えそうです。少し変わったデビューの仕方ではありますが。



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嫉妬

2010-12-15 18:28:26 | Weblog
嫉妬は普通自分の“外”にその感情の対象を持ちます。たとえば「あの男は女にモテモテでうらやましい」とか、「あの男」が対象になってます。ただ、もしも自分もモテモテだったらそんなことを思う必要はないわけで、すると嫉妬とは「自分に対する感情」だったのでしょうか。

【ただいま読書中】『ダーウィンの使者(下)』グレッグ・ベア 著、 大森望 訳、 ソニー・マガジンズ、2000年、1600円(税別)

ヘロデ流感は不思議な現象を起こしました。胎児を流産させ、それから30日後に(性交渉なしで)次の妊娠を引きおこすのです。それも、現生人類とは違ったタイプの子供を。
これは「特定方向への進化」ではないか、とケイやミッチは怯えます。自分たち(人類)はなにかとんでもないものを“妊んで”しまったのではないか、と。「たった一世代でのヒトの亜種分化」という驚天動地のアイデアが姿を見せたのです。
人類はパニックとなります。「怪物を殺せ」と。しかし「子供を殺すな」という勢力がそれに対抗します。さらには別の考え方をする人たちもいて、事態は混乱します。ケイとミッチは、このパニックは人類の歴史の中で初めてではない、と直感します。20世紀末に、あちこちの国で密かに行なわれた虐殺がそれではないか。そして……ネアンデルタール人も同じ目にあったのではないか、と。デモは暴動になり、科学的真実は政治とビジネスに覆われます。そしてその政治やビジネスさえ、別のもの(宗教や大衆の感情)に負けることになりそうです。
人類学的仮説がタスクフォースで却下されたため、ケイは辞職します。そしてケイは自分自身を実験体としてヘロデ・ベビーを産む決意をします。
「ヘロデ」「赤ん坊の虐殺」「性行為抜きの妊娠」……隠喩というか、むしろ直喩に満ちた世界になりつつあるなあ、と私は感じます。もちろん著者はそれを意識してやっているのでしょうが。
死産や流産が続きますが、やがてSHEVAは自らを変異させることでその状況に適応します。堕胎を政府が強制しているにもかかわらず、生きて産まれる赤ん坊(染色体数は52本)が予想されます。それに対する政府の対応は、戒厳令と強制収容所。未知なる“異物”は、強制的な隔離と殲滅です。皮肉なことにそれは、(ミッチが夢で見た)ネアンデルタール人たちの反応とまったく同じでした。ケイたちはネイティブ居留地に逃げ込みます。そして驚愕の出産シーン。
化石による証拠に断絶が多すぎることから、人類進化についてはまだまだ“面白い話”が作れそうです。ただ、『人類の足跡10万年全史』(スティーヴン・オッペンハイマー)や『5万年前 ──このとき人類の壮大な旅が始まった』(ニコラス・ウェイド)で示された現生人類の地球拡散の“旅”についての物語によって、グレッグ・ベアの根本的なアイデアである「ネアンデルタール人からの現生人類の発生」は成立しなくなってしまいました。それでも抜群に面白い遺伝子スリラー(かつSF)であることは間違いありません。



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片手

2010-12-14 19:03:43 | Weblog
もし「片手落ち」が政治的にまずいことばだとしたら、「片手間」も目の敵にされないといけないのでしょうか?

【ただいま読書中】『ダーウィンの使者(上)』グレッグ・ベア 著、 大森望 訳、 ソニー・マガジンズ、2000年、1600円(税別)

アルプス山中で発見された第二の「アイスマン」(それもネアンデルタール人)、グルジアで発見された虐殺のあと。冷たさと陰鬱さで本書は静かに幕を上げます。読みながら私はふっと『復活の日』のオープニングを思います。その中でファージの生存戦略が解説されます。バクテリアを溶菌するだけではなくて、ある種のレトロウイルスと同様バクテリアの染色体の中に自らを潜伏させ、時期が来たら活動を開始する溶原性ファージがいるのです。はい、伏線ですね。
性交渉で感染し、妊婦に必ず流産を引きおこすという奇病が登場します。その原因はHERV(人内在性レトロウイルス)。人間の複数の染色体に最初から組み込まれたバラバラの部品が何かのきっかけで集まってウイルスの粒子を形成し、一度できたウイルスは人から人へ感染していくのです。CDC(アメリカ疾病対策予防センター)ではSHEVAという略称をつけますが、あだ名は「ヘロデ流感」。世界は静かなパニックに包まれます。原因不明の流産が増えているだけではなくて、セックスをしていないのに妊娠をして流産をする、という奇妙な現象が発生していたのです。さらに、このSHEVAが人類の進化の推進触媒(プロモーター)ではないか、という仮説が登場します。環境の条件が整ったときに、あるい一定方向への進化を起こさせるものです。
本書に登場するこの仮説は、フィクションとはいえとても刺激的なものです。人類が別の存在に変わる(それも自分の遺伝子にあらかじめ内在する因子によって)というのはあまり嬉しい可能性ではありませんが、人類は進化のどん詰まりにある(恐竜が哺乳類に地球を譲ったように、人類も将来は別のもっと優れた生物(たとえばゴキブリ)にその座を奪われる)という“悲観的”な未来しか持てないよりはマシ、という考え方もあるでしょう。
しかし、主人公の一人は、してはならないことをしてしまったために科学の世界から追放されてしまった男ミッチ(人類学者)。もう一人は、遺伝子の研究fr者としては優れているのに経営能力がなく、夫に死なれ会社を手放してしまった女ケイ。どちらも「自分には何かが欠けている」という意識に悩まされています。そして、ヘロデ流感が世界に蔓延し始めたとき、一番真相に近いところにいたのはこの二人でした。ただし、SHEVAが感染するのに男と女の両方が必要なのと似ていて、真相を明らかにするにはこの二人が出会わなければ(二人がそれぞれ持つ情報が組み合わされなければ)ならないのです。しかし、一人は政府のプロジェクトの中枢に位置し、もう一人は地方で科学界とは完全に空間的にも社会的にも切り離されています。さらに二人が持っている知識には、一万年の時差があります。しかし……



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次の投票は

2010-12-13 17:33:00 | Weblog
民主党政権も次の総選挙で終わりそうですが、さて、前回こぞって民主党に投票した人は、次はどこに行くのでしょう。自民党は政権を失ってから根本的に変わった様子はありませんし(というか、かつての“何でも反対”社会党より悪いんじゃないかしら。社会党は自民党の政策に社会福祉推進の影響を与えていましたが、今の自民党は何を提案していましたっけ?)、宗教政党に政権を取らせるのは怖そうだし、小党はどれがどれやらよくわからないし。
こんな感じでかつてのドイツにはヒトラーが出てきたのかな?

【ただいま読書中】『代替医療のトリック』サイモン・シン&エツァート・エルンスト 著、 青木薫 訳、 新潮社、2010年、2400円(税別)

原題を見てまず大笑い。「TRICK OR TREATMENT? : Alternative Medicine on Trial」。これで発売がハロウィーンの季節だったらもっと大笑いなのですが。ここで重要なのは「on Trial」の部分です。正しいとか間違っているとかの「信念」を吐露するのではなくて、科学的に検討をしたらどうなるか、という態度で俎上に載せられるのは、鍼・ホメオパシー・カイロプラクティック・ハーブ……
ホメオパシーの所は、一々頷けます。レメディが希釈されすぎて、溶液の中にもとの物質の分子が一つも含まれないくらいになっているのに「水が記憶しているから」有効だ、というホメオパスの主張に対して「希釈に使われた水がそれまでに溶かしたことがある他の物質の記憶は?」という反論があるところなんか、大笑いです。
カイロプラクティックは、欧米では非常に人気があるんだそうですね。日本で整体や整骨に人気があるのと似ているのかな。
ともかく、ホメオパシー・カイロプラクティックなどの基礎理論は、じっくり読み込むとなんともトンデモの匂いがぷんぷんと。まあ、理論が無茶苦茶でもそのテクニックが有効(で害が少ないの)ならリクツは後から説明し直せばいいのですが、そこで問題なのはちっとも有効ではないのに有効だと喧伝されている有名な“療法”が存在すること。そこで本書は「二重盲検」や「系統的レビュー」を活用します。これは科学の方法ですが、別に非科学だけを差別するものではなくて、科学の中でも「有効ではないもの」は容赦なく指摘するものだから“使える”のです。

そういえば著者の一人、サイモン・シンがイギリスでカイロプラクティック協会に名誉毀損で訴えられたのはこの本の記述が原因でした。で、協会の方が盛大に“自爆”した、というのには……ここは笑うところかな?
本書で気になるのは、たとえば漢方薬ですでにいくつも二重盲検が行なわれてそれなりの結果を出していることがまったく無視されていることや、ジョギングやエクササイズなど“健康に良い運動”が俎上に載せられていないこと、です。運動は代替医療ではない、ということなのかもしれませんが、これだけ“信者”が多いものを検討しないのは片手落ちのような気がします。



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正義は勝つ

2010-12-12 18:13:38 | Weblog
正義と「何か」が戦って正義が勝ったときに、負けたその「何か」が「悪」であるとは限りません。「勝った正義」よりも「小さい正義」の場合もあります。つまり「正義」でも負けちゃう場合があるわけ。
もちろん「勝った方をあとから『正義』と認定する」という後出しじゃんけんの法則もありますが。

【ただいま読書中】『金色夜叉(下)』尾崎紅葉 著、 岩波文庫(緑14−2)、1939年(2003年改訂)、560円(税別)

貫一は意気地なしです。人間不信から自分も人間であることをやめた、と言うのなら、とことん非常な高利貸しに徹すればいいのに、人を傷つけるたびに自分も傷ついて懊悩するのですから……とここまで書いてなぜか「ファウスト」ということばが浮かんできました。貫一はファウスト? ただし、メフィストフェレス抜き。金はあるけれど、これはメフィストフェレスにはなれませんよね。
で、貫一に言い寄る人たちは、宮も養父も親友も、自分の思いを押しつけるばかりで(たとえば「これだけ謝っているのだから許すべきだ」とか)、貫一の心に対する思いやりをみごとに欠いています。口ではいいことを言っているように見えますが、やってることはひどい人ばっかり。まあこれが世間一般の善人なんでしょうね。
宮から貫一に手紙が毎週来ますが、貫一は封さえ切らずに火中に投じます。ひたすら貫一のことを慕う高利貸しの満枝に対してもなんの行動も起こせず、貫一はただただじっとしているだけです。もしかしたら著者もストーリー展開に行き詰まってしまったのか、と私は邪推します。その心の声が聞こえたのか、貫一の夢の中では大波乱。宮が死んでしまうのです。そこで『続 金色夜叉』は連載終了。
『続々 金色夜叉』は、那須の温泉で話が始まります。場面転換ですな。そしてそこで貫一が出会った心中志望カップルの片割れが、宮の夫富山に身請けされそうになっている愛子。おやおや、なんという出会いでしょう。そして、二人が心中をせずにすむ条件は、金。貫一から見たら“わずか”三千八百円です。貫一は二人を救うことにします。「富山への面当て」と「憎い金を使うことで人助け」の両面が満足させられる、希有なチャンス、とでも思ったのでしょうか。
結局中途半端なままでこの話は終わります(いや、終わりません)。いっそ、貫一が徹底的な悪役になって、金は儲けるが、精神は落ちぶれてしまい、それを浄化して救うのが宮、とか、あるいはその逆に宮が悪役になる(金のために富山と一緒になるが「心はあなたのものよ」と約束して、数年後に二人で一緒に逃げる)とか、どちらかが「悪役」になっていたら話は(私にとっては)もっと面白い展開をしていたのだろうなあ、と考えてしまいました。まあ「悪人が登場しない小説」にそれを求めるのは最初から無理な話でしょうけれど。
解説には「宮は、独身よりも既婚婦人の方がかえって自由がきく、という計算から結婚をしたのではないか」という説が書かれていました。そこで私は、ギャビン・ライアルのランクリン大尉シリーズでランクリンの愛人フィン夫人が、「自由」のためにわざと未亡人を演じているのを思い出しました。不自由な立場の方が身分が安定している分かえって「自由」となる、という逆説ですか。これは現代でも使えそうです。



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