瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

瞑想合宿レポート8

2005年09月03日 | 瞑想合宿レポート
◆家族との隔たり
昏沈睡眠は不善心所のひとつだが、そこに食事の問題がかかわって来る場合もある。また別の不善心所が昏沈睡眠の原因になっている場合もある。3日目、4日目、5日目と、午後はだいたい眠気が多かったが、夕方から夜にかけては、クリアな瞑想が多かった。この傾向も何かしら食事や補給のあり方が関係していたかもしれない。

6日目の面接で地橋先生に報告した、「今回は、前回に比べるとあまり重苦しくないですね。むしろ気分的にとても軽い感じで楽です」と。前回は、半分夢のようなイメージ妄想にまったくサティが入らず、必死であがいているうちに中盤になった。しかし今回は3日目頃から、午後に眠気が出ても夜になるとよい瞑想が多くなった。脳のバイブレーションとともに訪れる深いリラックス感、脳の透明感、そしてクリアなサティの連続。

しかし瞑想がよくなればよくなったで期待もまた大きくなった。神秘体験やサマーディへの渇愛ではない。そうした渇愛にはもう懲りていた。前回まではサマーディへの渇愛で苦しみ、それでいて渇愛は満たされなかった。そのかわり、予想もしなかったイメージの展開があり、予想もしなかった洞察に導かれた。そのためか「期待」の内容がひそかに変化していたようだ。神秘体験やサマーディはとりあえずいらない、今回はそれよりも「どんなイメージの展開によって、どんな洞察が得られるのだろう」と、新たな期待が生まれていた。

私は「今回は、どんなイメージが湧きあがるのか」と半ば無自覚に待ち望んで座禅していた。しかし、エゴが待ち構えているところへ「ハイ、どうぞ」とイメージが送られてくるはずがない。エゴがイメージを期待すればするほど、それは自らを隠してしまう。今回は実際に瞑想中に湧きあがるイメージは貧困で、前回のイメージを発展させたようなイメージはまったくなかった。

しかし、待ち構えるエゴをはぐらかすようにして別の展開がやってきた。6日目の夜、喫茶室で補給をしているときにふと家族のことを思った。そして、家族、とくに妻と生き方や価値観がだんだんと隔たっていくなと思った。私は、こうして合宿に参加して瞑想に打ち込み、週一回の一日断食にも取り組んでいる。それは魂の浄化への道だった。私がその道を歩めば歩むほど妻の生き方と隔たっていく。理解も共感もなく独りこの道を歩んで、妻や家族と徐々に離れていくことへの悲しみ。
コメント
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