瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

心解脱と慧解脱

2005年11月21日 | 瞑想日記
Mercyさんの話から印象に残ったことを思い出すままに書く。私が来るというのでアドバイスをと思い考えていたことが二つあったという。ところが驚いたことに、その二つの内容が2005/11/17 (木)の「喪失や痛みの経験から」にすでに書かれていたという。Mercyさんは、「私がアドバイスしようと思っていたことを深いところで感じ取っていたのかもしれない」と本当に驚いた様子だった。

17日の日記の前半は、妻との関係で心を「もっと透明にしていくこと」、エゴで色づけられない心、エゴを超えた視点で妻の言葉を受け止めること、妻との関係の中で大切なことを学んでいくことなどに触れた。Mercyさんは、こちらを心解脱に関係するという。ハートが開くことに関係する。ハートが開くときには、名称(ナーマ)は認識できない。形態(ルーパ)は分かるが名称は分からなくなるという。それによってハートが開いたことが分かるという。こちらは名称の解脱と呼ばれる。

17日の日記の後半は、仏教でいう諸行無常、一切は生滅変化するということに触れていた。「人が生きるということのもっとも深くに組み込まれた苦を、深いレベルで味わうことによってスピリチュアルな次元に開かれていく。」」これは、慧解脱に関係するという。慧解脱はむずかしい。これは形態(ルーパ)の解脱といわれる。心解脱では煩悩は残るが、慧解脱では煩悩の消滅が起こる。

以上は、体験のない私にはむずかしいが、大胆に私なりに捉えると、心解脱、名称の解脱は、言語や文化的な条件付け(枠組み)から自由にものを見ること、言語的な認識の枠組みから解放されるレベルのことではないだろうか。慧解脱、形態の解脱は、もっと奥深い生命そのものの条件付け(煩悩)からも解放されることなのか。

Mercyさんは、このお話の関連でラマナ・マハリシに触れ、彼の臨死体験がいちばん信用できるという。彼の場合は、心解脱と慧解脱が、同時にいっきに来たのではないかとのことだ。
コメント (7)
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