瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

選択なき観察

2006年01月01日 | 瞑想日記
◆元旦
9時過ぎに起きて瞑想をする。やはり少しずつ充実していくのを感じる。

午後、家族で父が入院するリハビリテーション・センターに行く。明日は、父が一日だけ帰宅する。家に帰って、子供や妻が年賀状を印刷する手伝いをする。印刷機の調子が悪かったりして手間取る。今年はみな、暮れのうちに書けなかった。かく言う私も、賀状を書き始めるのは明日になりそうだ。

暮れから読んでいた『不可触民とインド』によって様々なことを問いかけられた。インドのカースト制がインド社会において持つ意味をこれまでほとんど理解していなかったことが分かった。これからインドに関係する何を学ぶにしても、カースト制・インド下層民という視点を無視することはできないだろう。著者の他の何冊かの本をさっそく注文した。

◆『クリシュナムルティの神秘体験』より
「‥‥だが悲しみをたやすく欺くことはできない。それを終息させるためには、あなたはまさにその核心にまで入っていかねばならない。あなた自身のきわめて奥底まで、一ヶ所も残ることなく掘りつくさなければならない。あなたは狡猾な思考のあらゆる歪みと曲折、あらゆるものに対するあらゆる感情、あらゆる反応に対するあらゆる動きを余すところなく、選択することなく観察しなければならない。それは川をさかのぼって、その源にまで辿り着くようなものである。」338

ここにおそらく昨日書いた夢に対する答えがある。しかし、「選択することなく観察」すること、あるがままを観察することは、そうかんたんに出来ることではない。クリシュナムルティだけを読んでいたのでは、ではどうすればそれが出来るのか、というとまどいが生じてしまう。やはり私には、ヴィパッサナー瞑想の心随観という「方法」が、無選択の選択のためのいちばんの手がかりであるように思われる。そのためには瞑想によって深く自己に沈潜していかなければならい。
コメント (2)
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