日常生活の中で、湧き上がってきた思考にサティが入ることが多くなっている。すると自動的に思考から、今ここのセンセーションに注意が転換していく。
それともう一つ言えるのは、思考の内容に一歩踏み込んで心随観に移行することが多くなっている。と言っても日常生活の中でだから、それほど深める分けではない。思考の中の自我へのとらわれの要素に注目して、一言二言のラベリングする程度だが、これが意外に有効である。意識的にサティしようとしなければ、そこまで自己を客観視することはあまりないからだ。
たとえば二・三日前の誰かとの会話を反芻していることに気づく。「思考」なり「思い出」なりとラベリングをする。そして、その人の自分への評価を気にしていたことに気づいたたら「評価を気にしていた」程度にラベリングする。思考が湧きあがる度にこれができると、かなり「自我」の執着への気づきが深まるだろう。
さらに今日は断食明けだが、いつものように午前中は空腹感がまったくと言ってよいほどない。12時半頃、炊き立ての玄米をゴマとコンブの佃煮で食べる。少し多めに食べた。今回は、その後の反動的な食欲にほとんと屈しなかった。食べたい欲求が出たときにサティを一歩深めて入れているからである。
これまでならおざなりに「食べたい」ぐらいのラベリングをして、あとは食い気に負けていたが、今日は、さらにもう一歩突っ込んでラベリングした。「腹は満ち足りている」「口が恋しい」「味を楽しみたい」‥‥。これだけでかなり有効だ。踏みとどまることが出来る。なぜこんなかんたんなことが出来なかったのだろう。ここからさらに内面に踏み込んだサティが入ると、もっと強力だろう。
それともう一つ言えるのは、思考の内容に一歩踏み込んで心随観に移行することが多くなっている。と言っても日常生活の中でだから、それほど深める分けではない。思考の中の自我へのとらわれの要素に注目して、一言二言のラベリングする程度だが、これが意外に有効である。意識的にサティしようとしなければ、そこまで自己を客観視することはあまりないからだ。
たとえば二・三日前の誰かとの会話を反芻していることに気づく。「思考」なり「思い出」なりとラベリングをする。そして、その人の自分への評価を気にしていたことに気づいたたら「評価を気にしていた」程度にラベリングする。思考が湧きあがる度にこれができると、かなり「自我」の執着への気づきが深まるだろう。
さらに今日は断食明けだが、いつものように午前中は空腹感がまったくと言ってよいほどない。12時半頃、炊き立ての玄米をゴマとコンブの佃煮で食べる。少し多めに食べた。今回は、その後の反動的な食欲にほとんと屈しなかった。食べたい欲求が出たときにサティを一歩深めて入れているからである。
これまでならおざなりに「食べたい」ぐらいのラベリングをして、あとは食い気に負けていたが、今日は、さらにもう一歩突っ込んでラベリングした。「腹は満ち足りている」「口が恋しい」「味を楽しみたい」‥‥。これだけでかなり有効だ。踏みとどまることが出来る。なぜこんなかんたんなことが出来なかったのだろう。ここからさらに内面に踏み込んだサティが入ると、もっと強力だろう。