瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

夢、そして回帰

2006年01月14日 | 夢日記
このブログの方で「夢日記」というカテゴリーを作り、夢を記した日記をそこにまとめた。さるさる日記の方はそういう機能はないが、そのかわり日記内部の検索ができる。ブログもいいがさるさる日記のシンプルさ、見やすさ、そしてバックアップの意味もあって、両方を続けている。さるさるで「夢」というキーワードで検索すると、夢日記以外もかなり引っかかるが、夢を記した日記をひろっていくことができる。

「夢日記」のカテゴリーで最近の夢を振り返って見ると、半月ぐらいごとにちょっと重要そうな夢を見ているようだ。しかし、何と言っても最近でいちばん意味がある夢は、僧侶=白鶴の夢だった。今でも思い出すと自分の中にある自覚が生まれる。自己の利害に左右されたり、影響されたりがない純粋な行為、なすべきことに真摯に取り組むこと、「自我による汚れなき行為」、それが夢の中の僧=白鶴の意味だった。

魂の奥底で私は、そういう行為をすでに知っている。そういう行為、そういう生き方の深い意味をすでに知っている。それは、私にとって憧れであると同時に、すでにあるものへの回帰だ。すでに完璧に知っているあり方に回帰することの喜びだ。

回帰は、私にとってまず行為として現れるだろう。純粋な行為こそが私にとってもっともたやすい。瞑想よりも何よりも。
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不可触民のこと

2006年01月14日 | 読書日誌
最近、『不可触民と現代インド』『アンベードカルの生涯』『不可触民・もうひとつのインド』と山際素男氏の著訳書を続けて読んだ。いずれも精神世界の本を読むで取り上げた。

インド不可触民の差別と抑圧の問題に、アンベードカルという人物に、インドの歴史の一面にますます関心が強くなっている。そしてアンベードカルが復興し、いまや信者一億人といわれるインドの仏教がどのような実態にあるのか、知りたいと思うようになった。そのためにも山際氏が佐々井秀麗の半生を描いた『破天―一億の魂を掴んだ男 』も読みたい気持ちが強くなっているのだが、絶版であり、古書では九千円もするので、買うのはまだ躊躇している。

「精神世界の本を読む」にも書いたが、インド下層民の差別と抑圧の歴史に引かれるのは、そこに人間の歴史と文化の現実が際立った形で現れているからだと思う。インド文化の深い精神性とカーストによる強烈な差別の現実。その両極端を飲み込んで混沌たる流れをなすインドの歴史。そこに引かれるのだと思う。

現代の不可触民の姿の一端については

カーストの殻はまだ破れない
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