3 至高体験とB認識
さて、いくつかの事例によって、至高体験およびそのB認識のあり方を確認してきた。つぎは、至高体験におけるB認識の特徴に焦点をあてつつ、さらに詳細な検討をしていきたい。すべて至高体験の特徴の中で列挙したものだが、ここでB認識の特徴を抜き出して確認しておこう。
1)B認識において人や物は、「自己」との関係や「自己」の意図によって歪められず、「自己」自身の目的や利害から独立した、そのままの姿として見られる。
2)B認識は無我の認識である。
3)B認識は、ふつうの認識に比べ、受動的な性格をもつ。
4)B認識では、対象はまるごと一つの全体として把握される。
5)B認識にはまた、具体的であると同時に抽象的である。
以上のうち、1)から4)は、これまでの事例によってもある程度イメージがつかめたかと思うが、ここで再度確認していこう。
まず1)ついて。われわれの日常生活で見られるようなD認識の経験では、対象を利害の立場から見るために、自己の目的達成の手段という視点から対象を一面的にとらえてしまう。ところがB認識では、すべての対象は、あらゆる利害を離れてそれ自体が、全体的なものとしてとらえられる。
2)同様に、B認識は無我の認識であるともいえる。自己実現した人間の正常な知覚や、ふつうの人々の時折の至高体験においては、認識はどちらかといえば、「自我超越的、自己忘却的で、無我」という傾向をおびるという。それは「不動、非人格的、無欲、 無私」とも言いかえられるよう。自我中心の見方から脱して、対象中心的な見方に向かう。1)で見たような特徴を別の観点から表現したのだともいえるだろう。
江戸時代の禅者、至道無難の歌「我れなくて見聞覚知する人を、生き仏とはこれをいうなり」というのは、まさにB認識の核心をすばり表現しているだろうし、逆に同じ至道無難の「我ありて見聞覚知する人を、生き畜生とはこれをいうなり」というのは、まさにD認識を表現している。
3)またB認識は、ふつうの認識に比べ、受動的な性格をもつようだ。ふつうの認識(D認識)は、非常に能動的なプロセスである。それは観察者がおこなう一種の構成と選択によって成り立っている。観察者が、見ようとするものと見たくないものを選ぶのである。また、自分が見ようとするものを、自己の欲求や恐れや利害関心と結びつけて歪めて見る。日常わたしたちは、つねに対象に働きかけ、それを組みたて、再配列して作り上げた認識をしているのだ。
それに対してB認識は、はるかに「受動的、受容的」な傾向をもつ。それは経験を前にして「謙虚で、無干渉的」であり、認識の対象を「その本然の姿にとどまらせること」である。そうした特徴をクリシュナムルティは、「無選択意識」と呼び、マスローは「無欲意識」と名づけた。
4)B認識では、対象はまるごと一つの全体として把握される。覚醒者や至高体験時の認識では、一つの全体として、完全な一体(ワンネス)として見られる傾向があるのだ。この世のすべては、「自己」の都合や目的や手段から独立した一体なのである。そこの街角にたたずむ人が、あるいは道ばたの花が、そのつど宇宙のすべてであるかのように見られるのだ。
さて、いくつかの事例によって、至高体験およびそのB認識のあり方を確認してきた。つぎは、至高体験におけるB認識の特徴に焦点をあてつつ、さらに詳細な検討をしていきたい。すべて至高体験の特徴の中で列挙したものだが、ここでB認識の特徴を抜き出して確認しておこう。
1)B認識において人や物は、「自己」との関係や「自己」の意図によって歪められず、「自己」自身の目的や利害から独立した、そのままの姿として見られる。
2)B認識は無我の認識である。
3)B認識は、ふつうの認識に比べ、受動的な性格をもつ。
4)B認識では、対象はまるごと一つの全体として把握される。
5)B認識にはまた、具体的であると同時に抽象的である。
以上のうち、1)から4)は、これまでの事例によってもある程度イメージがつかめたかと思うが、ここで再度確認していこう。
まず1)ついて。われわれの日常生活で見られるようなD認識の経験では、対象を利害の立場から見るために、自己の目的達成の手段という視点から対象を一面的にとらえてしまう。ところがB認識では、すべての対象は、あらゆる利害を離れてそれ自体が、全体的なものとしてとらえられる。
2)同様に、B認識は無我の認識であるともいえる。自己実現した人間の正常な知覚や、ふつうの人々の時折の至高体験においては、認識はどちらかといえば、「自我超越的、自己忘却的で、無我」という傾向をおびるという。それは「不動、非人格的、無欲、 無私」とも言いかえられるよう。自我中心の見方から脱して、対象中心的な見方に向かう。1)で見たような特徴を別の観点から表現したのだともいえるだろう。
江戸時代の禅者、至道無難の歌「我れなくて見聞覚知する人を、生き仏とはこれをいうなり」というのは、まさにB認識の核心をすばり表現しているだろうし、逆に同じ至道無難の「我ありて見聞覚知する人を、生き畜生とはこれをいうなり」というのは、まさにD認識を表現している。
3)またB認識は、ふつうの認識に比べ、受動的な性格をもつようだ。ふつうの認識(D認識)は、非常に能動的なプロセスである。それは観察者がおこなう一種の構成と選択によって成り立っている。観察者が、見ようとするものと見たくないものを選ぶのである。また、自分が見ようとするものを、自己の欲求や恐れや利害関心と結びつけて歪めて見る。日常わたしたちは、つねに対象に働きかけ、それを組みたて、再配列して作り上げた認識をしているのだ。
それに対してB認識は、はるかに「受動的、受容的」な傾向をもつ。それは経験を前にして「謙虚で、無干渉的」であり、認識の対象を「その本然の姿にとどまらせること」である。そうした特徴をクリシュナムルティは、「無選択意識」と呼び、マスローは「無欲意識」と名づけた。
4)B認識では、対象はまるごと一つの全体として把握される。覚醒者や至高体験時の認識では、一つの全体として、完全な一体(ワンネス)として見られる傾向があるのだ。この世のすべては、「自己」の都合や目的や手段から独立した一体なのである。そこの街角にたたずむ人が、あるいは道ばたの花が、そのつど宇宙のすべてであるかのように見られるのだ。