《八木誠一》
八木誠一(やぎせいいち、一九三二~)は神学関係の学者であるが、久松真一、秋月龍らの禅学者・禅僧とも積極的に議論をかさね、伝統的な神学の枠に縛られずに「覚」の宗教者として活躍する。彼が語る体験を見よう。
八木誠一の事例
この体験中の「いままで樹は樹だと思っていた。何という間違いだろう」、あるいは「あくまで私は私、ひとはひと、樹は樹でありながら、もはや単にそうではなかったのだ」という表現に注目してほしい。
ふつうの人々の日常的な認識の大部分は、具体的というよりむしろ抽象的という傾向をもっている。ごく普通の日常的な認識は多くの場合、自分の都合に合わせて分類し、ラベルを貼り、抽象化して見ているのだ。雑草を「雑草」と概念化し、ラベル貼りして、そうとしか見ないのは、それ以上の必要がないからである。園芸家は必要に応じて雑草の個々の種類まで分類するであろう。しかしそれも自分の必要からする概念化であり、ラベル貼りにすぎない。 いずれにせよ、われわれは日常、自分の必要のレベルに合わせて概念化され、整理された世界を見ている。そして、そのラベルによる抽象、整理された世界を現実と取り違えている。ラベルを貼られてきれいに並んだ整理箱が現実だと勘違いしているのだ。
抽象化(概念化、ラベル貼り)とは要するに、対象の一面を選択すること、われわれに必要な側面を言葉(概念、ラベル)によって際立たせることである。問題はそれによって現実を固定化し、定式化して見ることにて慣れてしまい、生きた現実、なまの豊かな世界が見えなくなることだろう。
至高体験においては、「具体性を失わないで抽象する能力と、抽象性を失わないで具体的である能力」とが同時に見出されるという。B認識とは、ラベルの向こうに生き生きとした現実が同時に透けて見えることだとも言えるだろう。八木誠一が、「あくまで私は私、ひとはひと、樹は樹でありながら、もはや単にそうではなかったのだ」と感じたのは、いままで「樹」という概念のフィルターで見られていた樹が、それと同時に、概念による整理(抽象)以前の、なまの実在として現われたということではないか。「具体性を失わないで 抽象する能力と、抽象性を失わないで具体的に見る能力」とは、おそらくこういう意味であろう。
八木誠一(やぎせいいち、一九三二~)は神学関係の学者であるが、久松真一、秋月龍らの禅学者・禅僧とも積極的に議論をかさね、伝統的な神学の枠に縛られずに「覚」の宗教者として活躍する。彼が語る体験を見よう。
八木誠一の事例
この体験中の「いままで樹は樹だと思っていた。何という間違いだろう」、あるいは「あくまで私は私、ひとはひと、樹は樹でありながら、もはや単にそうではなかったのだ」という表現に注目してほしい。
ふつうの人々の日常的な認識の大部分は、具体的というよりむしろ抽象的という傾向をもっている。ごく普通の日常的な認識は多くの場合、自分の都合に合わせて分類し、ラベルを貼り、抽象化して見ているのだ。雑草を「雑草」と概念化し、ラベル貼りして、そうとしか見ないのは、それ以上の必要がないからである。園芸家は必要に応じて雑草の個々の種類まで分類するであろう。しかしそれも自分の必要からする概念化であり、ラベル貼りにすぎない。 いずれにせよ、われわれは日常、自分の必要のレベルに合わせて概念化され、整理された世界を見ている。そして、そのラベルによる抽象、整理された世界を現実と取り違えている。ラベルを貼られてきれいに並んだ整理箱が現実だと勘違いしているのだ。
抽象化(概念化、ラベル貼り)とは要するに、対象の一面を選択すること、われわれに必要な側面を言葉(概念、ラベル)によって際立たせることである。問題はそれによって現実を固定化し、定式化して見ることにて慣れてしまい、生きた現実、なまの豊かな世界が見えなくなることだろう。
至高体験においては、「具体性を失わないで抽象する能力と、抽象性を失わないで具体的である能力」とが同時に見出されるという。B認識とは、ラベルの向こうに生き生きとした現実が同時に透けて見えることだとも言えるだろう。八木誠一が、「あくまで私は私、ひとはひと、樹は樹でありながら、もはや単にそうではなかったのだ」と感じたのは、いままで「樹」という概念のフィルターで見られていた樹が、それと同時に、概念による整理(抽象)以前の、なまの実在として現われたということではないか。「具体性を失わないで 抽象する能力と、抽象性を失わないで具体的に見る能力」とは、おそらくこういう意味であろう。