《渡邊満喜子》
つぎに挙げるのは渡邊満喜子氏(わたなべみきこ、一九四四~)の体験である。彼女は、メキシコに滞在中に、自然に感応する生来の敏感な身体感覚によって、この国の大地がもつ深く大きな自然の力と共鳴するというエネルギー体験をする。帰国後、不整脈などの症状に悩み、「野口整体」の健康法のプロセスで、「活元」による自然発声からヴァイブレーションを基にする歌が生まれた。さらにその後のメキシコ旅行の途中で自然のエネルギーに導かれ、「自らを癒す歌」から「他者を癒す歌」が生まれた。そして、生命の根源から生まれる声と歌による「ヴォイスヒーリング」で多くの人を癒しているという。
以下に引用するのは、最初のメキシコ滞在中にあった体験である。
『この町(グァダラハラ)に友人や家族と旅行した。この町には有名な革命期の画家オロスコの壁画がある。かつては孤児院であったその建物は、内部に24の小さなパティオがある独特の構造をもっていた。
私はオロスコの絵を見てしまうと、ぼんやり窓の外をながめた。絵のある部屋は窓の外にあふれる午後のひかりにくらべると、薄い闇におおわれているような気がした。私は窓に近づいて、ひかりにくっきり浮かびあがったパティオをながめた。小さな庭の真ん中にがっしりした樹があった。見つめていると、樹の輪郭がわずかにずれているのがわかった。 樹はゆらゆらと視界のなかで揺れた。
「この樹は樹であって、しかも樹ではない」と何かが私にささやいた。
じっと見つめていれば、それが何であるかわかると思った。深い戦慄が背中をはいあがってきた。もう少し、もう少し……と張りつめたものがはじけそうになる寸前、何かがもう一度私にささやいた。
「あの樹が樹でないことがわかれば、私もまた私ではないことがわかるだろう」
私はとっさに方向転換した乗り物のように、日常の水面に浮かびあがった。みぞおちに恐怖感のさざ波が打ちよせていた。部屋の薄い闇の奥から、娘が小走りに駆けよってきた。 暖かいその体を抱きよせると、微かに汗のにおいがした。それはいとおしい「こちら側」の手触りだった。』(『聖なる癒しの歌―ヴォイスヒーリングへの道 (現代のさとり体験シリーズ)』金花舎、一九九六年)
ここで「この樹は樹であって、しかも樹ではない」と語られる言葉が、八木誠一の「いままで樹は樹だと思っていた。何という間違いだろう」と響きあうのは、いうまでもない。渡邊氏の体験で興味深いのは、さらに「あの樹が樹でないことがわかれば、私もまた私ではないことがわかるだろう」と語られていることだ。つまり、樹が樹でないことと、私が私でないこととが、同じこととして語られている。しかも、「私もまた私ではない」世界へ行ってしまうことの恐怖とともに。
「私もまた私ではない」は、至高体験における「1、‥‥自己の利害を超越し、対象をあるがままの形で全体的に把握し、認識の対象を完全な一体として見る」や、「4、‥‥認知が自己超越的、自己没却的で、観察者と観察されるものとが一体となり、無我の境地に立つことができる」などの特徴との深いかかわりが感じられる。
至高体験においては、たとえ一時的であろうと「自己」は消える。「自己」というフィルターがないからこそ、「自己」の利害や「自己」によるラベル貼りを超えた生き生きとした現実が姿を現す。しかし、「自己」の消滅は、「自己」にとっては恐怖である。渡邊氏は、おそらくその恐怖に直面したのであろう。
つぎに挙げるのは渡邊満喜子氏(わたなべみきこ、一九四四~)の体験である。彼女は、メキシコに滞在中に、自然に感応する生来の敏感な身体感覚によって、この国の大地がもつ深く大きな自然の力と共鳴するというエネルギー体験をする。帰国後、不整脈などの症状に悩み、「野口整体」の健康法のプロセスで、「活元」による自然発声からヴァイブレーションを基にする歌が生まれた。さらにその後のメキシコ旅行の途中で自然のエネルギーに導かれ、「自らを癒す歌」から「他者を癒す歌」が生まれた。そして、生命の根源から生まれる声と歌による「ヴォイスヒーリング」で多くの人を癒しているという。
以下に引用するのは、最初のメキシコ滞在中にあった体験である。
『この町(グァダラハラ)に友人や家族と旅行した。この町には有名な革命期の画家オロスコの壁画がある。かつては孤児院であったその建物は、内部に24の小さなパティオがある独特の構造をもっていた。
私はオロスコの絵を見てしまうと、ぼんやり窓の外をながめた。絵のある部屋は窓の外にあふれる午後のひかりにくらべると、薄い闇におおわれているような気がした。私は窓に近づいて、ひかりにくっきり浮かびあがったパティオをながめた。小さな庭の真ん中にがっしりした樹があった。見つめていると、樹の輪郭がわずかにずれているのがわかった。 樹はゆらゆらと視界のなかで揺れた。
「この樹は樹であって、しかも樹ではない」と何かが私にささやいた。
じっと見つめていれば、それが何であるかわかると思った。深い戦慄が背中をはいあがってきた。もう少し、もう少し……と張りつめたものがはじけそうになる寸前、何かがもう一度私にささやいた。
「あの樹が樹でないことがわかれば、私もまた私ではないことがわかるだろう」
私はとっさに方向転換した乗り物のように、日常の水面に浮かびあがった。みぞおちに恐怖感のさざ波が打ちよせていた。部屋の薄い闇の奥から、娘が小走りに駆けよってきた。 暖かいその体を抱きよせると、微かに汗のにおいがした。それはいとおしい「こちら側」の手触りだった。』(『聖なる癒しの歌―ヴォイスヒーリングへの道 (現代のさとり体験シリーズ)』金花舎、一九九六年)
ここで「この樹は樹であって、しかも樹ではない」と語られる言葉が、八木誠一の「いままで樹は樹だと思っていた。何という間違いだろう」と響きあうのは、いうまでもない。渡邊氏の体験で興味深いのは、さらに「あの樹が樹でないことがわかれば、私もまた私ではないことがわかるだろう」と語られていることだ。つまり、樹が樹でないことと、私が私でないこととが、同じこととして語られている。しかも、「私もまた私ではない」世界へ行ってしまうことの恐怖とともに。
「私もまた私ではない」は、至高体験における「1、‥‥自己の利害を超越し、対象をあるがままの形で全体的に把握し、認識の対象を完全な一体として見る」や、「4、‥‥認知が自己超越的、自己没却的で、観察者と観察されるものとが一体となり、無我の境地に立つことができる」などの特徴との深いかかわりが感じられる。
至高体験においては、たとえ一時的であろうと「自己」は消える。「自己」というフィルターがないからこそ、「自己」の利害や「自己」によるラベル貼りを超えた生き生きとした現実が姿を現す。しかし、「自己」の消滅は、「自己」にとっては恐怖である。渡邊氏は、おそらくその恐怖に直面したのであろう。