これに対してD認識では、「自己」のその時々の都合と必要に合わせて言葉というラベルが貼られ、そのラベルを通してしか見られない。われわれはおそらく、この世のすべてに自分の整理の都合に合わせて言葉というラベルを貼りつづけているのだ。ラベルを貼ることで、全体(ワンネス)を分割し、分類してしまい、分割・分類することでそれを把握できたと勘違いしているであろう。
しかし実は、ラベルの貼られた整理箱の中味については何も見ていないことが多いのだ。対象はそのまま見られるというよりも、むしろ「類の一員として、大きな範疇の一例として」整理箱に入れられただけなのである。
たとえば普通われわれは、道ばたの雑草に「雑草」というラベルを貼り付けてしまえばそれで終わりでそれ以上に対象認識は進まない。このようなラベル貼りによる認知をマスロー は「概括」と呼んだ。もしかしたら桜を美しいと感じるのも、「桜は美しいもの」 という「概括」的な認知のレベルを超えていないのかも知れない。私たちのなかに染み付いた固定化された美意識は、「美しい桜」というラベルを貼ることで、世間一般と美意識を共有し、安心するための道具にすぎないともいえよう。
しかし、雑草が咲かせた一輪の花に生命の神秘、宇宙の神秘を感じ取る人もいるのだ。自己実現した人々は、ほとんどの人々が現実界と混同している言語化された概念、抽象、期待、信条、固定観念の世界(ラベルで整理された世界)よりも、はるかに自然な生々とした世界のうちに生きる。いま・ここで出逢うひとつひとつの対象が、 そのつど宇宙のすべてであり、宇宙のいのちの一体のものとして感じられるのがB認識なのだろう。
5)B認識にはまた、具体的であると同時に抽象的であるという特徴がある。これについては、これまでに取り上げた事例からだけでは、その意味するところが分かりにくいかもしれない。そこで、さらにいくつかの事例を見ながら検討していきたい。
しかし実は、ラベルの貼られた整理箱の中味については何も見ていないことが多いのだ。対象はそのまま見られるというよりも、むしろ「類の一員として、大きな範疇の一例として」整理箱に入れられただけなのである。
たとえば普通われわれは、道ばたの雑草に「雑草」というラベルを貼り付けてしまえばそれで終わりでそれ以上に対象認識は進まない。このようなラベル貼りによる認知をマスロー は「概括」と呼んだ。もしかしたら桜を美しいと感じるのも、「桜は美しいもの」 という「概括」的な認知のレベルを超えていないのかも知れない。私たちのなかに染み付いた固定化された美意識は、「美しい桜」というラベルを貼ることで、世間一般と美意識を共有し、安心するための道具にすぎないともいえよう。
しかし、雑草が咲かせた一輪の花に生命の神秘、宇宙の神秘を感じ取る人もいるのだ。自己実現した人々は、ほとんどの人々が現実界と混同している言語化された概念、抽象、期待、信条、固定観念の世界(ラベルで整理された世界)よりも、はるかに自然な生々とした世界のうちに生きる。いま・ここで出逢うひとつひとつの対象が、 そのつど宇宙のすべてであり、宇宙のいのちの一体のものとして感じられるのがB認識なのだろう。
5)B認識にはまた、具体的であると同時に抽象的であるという特徴がある。これについては、これまでに取り上げた事例からだけでは、その意味するところが分かりにくいかもしれない。そこで、さらにいくつかの事例を見ながら検討していきたい。