瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

真実と表現(「島唄」)

2006年10月18日 | 瞑想日記
15日の夕方、たまたま見ていたテレビの画面で宮沢和史がインタビューに答えていた。あとから調べたところ『音楽の遺伝子[再]』 (NHK総合)という番組だったようだ。

リゾート気分で沖縄にいったが、「ひめゆりの塔」や「ひめゆり平和祈念資料館」で、沖縄戦での沖縄の人々の体験した苦しみ、悲しみを追体験したという。その苦しみや悲しみと、自分がこれまでの人生で味わった苦しみ、悲しみは比較できないけれど、その比較できない苦しみに共感するのは、やはり自分のささやかな苦しみ、悲しみによるほかない。その体験から、『島唄』などが生まれていったという。

正確に彼が語っていた言葉を覚えていないが、彼の言葉に深い「真実」を感じた。曲と詩によって自分のなかの「真実」を「表現」しようとする、彼のあり方に何かしら共鳴するものがあった。「島唄」は、何度か聴いた記憶がある程度だったが、あらためて響いてくるものがあった。

私の中のここ数日のテーマに「表現」ということがあるように思う。今朝方見た夢もそれに関連していたと思う。

夢の中で私は十数人の聴衆に混じって、ある人の講演を聴いていた。その人が誰かは分からなかった。何か感じるものがあった。講演が終わったとき、講演者は私のところへ来て、「あなたは私が伝えたいことが分かったろう、どのように分かったか話してほしい」と依頼された。私は一瞬とまどった。
何が語られたのかさっぱり分からなかった、あるいは思い出せなかった。何も語ることがなくこまったが、一つ感じたことがあった。講演者には飾り気がどこにも感じられなかったことだった。そこに共感していた。しかも深く真実を語っていることが感じられた。そこにも共感していた。それだけ確認し、語れば十分なような気がした。そんな夢だった。

最近、私はこの日記を書き続けることの意味を自覚的にとらえるようになってきている。それは、私の心の中に起っている「真実」を「表現」することだった。「真実」と「表現」とは密接に結びついている。「真実」があって、それが「表現」されるのではなく、「表現」によって「真実」が形をなしていくような感じがある。日記を書き続けることの意味は、「表現」によって自分自身の「真実」を明らかにしていくこと自体にあるように思える。

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