瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

「想念」

2006年10月20日 | 瞑想日記
日常の中で浮かんでは消える思いやイメージをどのような言葉で表現すべきなのか、いつも迷う。いちばんよく使っているのは「思考」かもしれない。しかし、この言葉には筋道たてて意識的に考えるという意味合いがあるので、あまり適切ではない。

「妄想」という言葉もあるが、「まったくの想像を、自分で考えだして事実だと信じこんでしまうこと」という病的な意味と、そこから派生する否定的な意味あいが強いので使いたくない。

「雑念」は、意味あいとしてはいちばん近いかも知れないが、「集中」を乱すものとして少しは否定的な響きがあるし、手垢にまみれている感じで抵抗がある。

「想念」がいちばん中立的で適切なのかもしれない。

ともあれ、適切な日常語がないということは、日々意識に浮かんでは消える「想念」を何かしら重要なものとして捉えたり、そのあり方を学問的に研究するという発想が、従来はなかったということだろう。

しかし私には、日ごとにますます「想念」が重要な意味をもってくる。ひとつには、その連綿と続く「想念」こそが私の「自我」を形づくる主要ファクターであり、私が抱く「想念」の集積が、私という人間の何たるかを物語っている、私の愚かさを形づくっていると思うからだ。

もうひとつは、自分の「想念」やイメージや感情を対象化する視点に立つたごとに、日常的な生活意識を超えて、「限りあるいのち」の視点に連れ戻されるような気がするからだ。「限りあるいのち」の視点からすると、結局、日々の「想念」は、日常的な生活意識に埋没し、そこを超ええない「無明」の営みであることが分かるからだ。

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