瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

動機と慢の自覚化

2006年10月22日 | 瞑想日記
起床後、ゆる体操、自発動気功、そして瞑想。ひさしぶりの瞑想となる。瞑想は40分ぐらいか。半ばごろから、手のひら、丹田、額の気が響き合って気の場が整ってくる感じ。しばらく瞑想をしていなかったのでこの感じがくるのが遅かった。ようやく後半になって脳が静まっていく感じになった。

浮かんでくる「想念」の出どころをじっくりサティする感じが、時間が経過するごとに深まった。この感じはこれまであまりないものだった。

家で行う瞑想においても瞑想合宿での瞑想においても、そこには根深く、しかも微妙な形で自我の動機や狙いが横たわっている。何か行為をなそうとする以上は、そこにかならず動機や狙いがある。瞑想においては、自我の狙いは巧妙に隠されたり、微妙で複雑なからみを伴って心の底に渦巻いている。

私はこれまで瞑想合宿においてさえ、巧妙複雑な自我の狙いに気づき、自覚化することについてかなり甘かったのではないか。今日はとくにそんな感じがした。

もちろん自我の盲点になってしまい、夢やイメージ体験を通したりした意識の転換がないと気づきにくい場合も多い。しかし今日感じたのは、自我の動機や狙いを自覚化しようとする意識をしっかりもっていれば、かすかな「想念」からでもそれが意外と気づかれやすいということだった。

たとえば瞑想中に腹の動きへの集中がよくなり、かすかな想念にもサティが入りやすくなる。するとそこに明確な言葉にならないようなかすかな「慢」が生じている。意識的にそういう心の動きを捉えようとしていないと見過ごしてしまう。それを適確にサティしていくのだ。それが出来るとそこにまた別の「慢」が生じる。それも自覚化する。無限後退。

このように自我の動機や狙い、それに伴う優越意識や劣等意識をことごとく自覚化していくと、心は自然に静まっていくような気がした。

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