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思考と瞑想の心理学05:二つ目の盲点

2010年07月02日 | 思考と瞑想の心理学
日常的な思考が私たちにとっての盲点になっている、ということには二重の意味があると、最初に書いた。ひとつは、まさに私たち自身が、自分の脳内おしゃべりに充分気づいておらず、多くの場合は、半ば無意識に、受動的におしゃべりが続き、時には強迫的に同じテーマをくりかえし考えている、ということだった。そして大切なことは、その受動的なおしゃべりの内容が、私たちのあり方を規定し、人格の質を決定しているということだ。無意識の思考がエゴを形づくり、強化している。「自分の思考」という思考との同一化がエゴの実態だろう。無自覚な脳内おしゃべりが、私たちの「無明」を、迷いの世界を形づくっている。

二つ目の意味は、学問的なものだ。これほどに多くの時間を脳内おしゃべりに費やし、しかもそれが、私たちの人格にとって決定的な意味をもっているにもかかわらず、日常的な思考のあり方を真正面からテーマして研究する現代の学問分野がない。私たちの日常のこれほと基本的な営みであるにもかわらずである。思考心理学というのはあるようだ。しかしそれはあくまで意図的、意識的な思考のあり方を研究するもので、私たちの誰もがひまさえあれば行っている日常的な思考を研究するものではない。

なぜなのか。まさに盲点だからなのだが、ではなぜ盲点なのか。おそらく私たちのあまりに主観的で、しかも日常の意識にとって盲点になっている営みなので、学問的な研究の対象になりにくいからだ。瞑想を行えば、私たちの日常的な思考のあり方がある程度見えてくるが、瞑想を行うなどしなければ、私たちの頭の中をたえず流れている思考のざわめきを問題としてとらえることもないだろう。ましてや、学問的な研究の対象として捉えることもない。

4年前に別ブログで同様の内容をアップしたとき、いくつかのコメントを頂いた。たとえば、初期仏教が日常的な思考を詳しく研究し、これらを「浄心所25種、不善心所14種、同他心所13種に分類している」ということだ。もちろん仏教は、「迷いから悟りへ」を目指す以上、迷いの世界の分析にも並々ならぬ情熱を注いできた。ただ問題は、現代心理学が現代の研究成果を参照しながら、私たちの意識の大部分を占めている「日常的な思考」のあり方を、なぜ研究対象としないか、ということなのだ。

また、認知行動療法やポジティブ心理学は「日常的思考」を扱っているのではという別のコメントを頂いた。しかし、これらは全体として常態での「日常的思考」を対象とするのではなく、特定の症状の治療や特定の目的という限られた視点から取り扱っているに過ぎないのではないだろうか。これらを何らかの形で参考にしていくことは、もちろん大切であるが。
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