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思考と瞑想の心理学10:思考と「自己」

2010年07月07日 | 思考と瞑想の心理学
ほとんどの「日常の思考」は、無意識的な執着や衝動に突き動かされつつ繰り返されていく。自覚的なコントロールなしに繰り返される。そして、とくに強い執着や抑圧されたコンプレックスに関しては、まるでむさぼるかのように同じパターンの思考を繰り返すのだ。しかも自分自身では、そのことに無自覚である。これが「むさぼる思考」である。

自覚されない思考は、自己増殖して強力な力をもつようになることもあるだろう。完全に自覚的なコントロールができなくなってしまう。自分で不合理だと分かっていても、抑圧されたエネルギーに文字通り衝き動かされるかのように同じ思考を繰り返す。これが「強迫観念」と呼ばれるような病的な状態だろう。

さて、今まで「日常的な思考」をいくついかの観点から分類してみた。こうした作業は、今後もっと構造的に精確に続けていく必要があるだろう。ここでとりあえず分類の作業を止めて、次に「自己」という観念と思考との関係を考えよう。

誰もが漠然ともっている「自分はこういう人間だと抱いている自己イメージ」は、心理学用語で「自己概念」とか「自己構造」という言葉で呼ばれる。ロジャースなどが心理療法の立場からこの概念を明確にした。しかしやはりここでも、「日常的な思考」と「自己」との関係が明らかにされたわけではない。

そこで、この「自己概念」と日常的思考との関係を問うことも、私たちの非常に大切なテーマである。「自己概念」は、「私はこういう人間だ」という無数の思考の集合体として成り立っている。ということは、一定のイメージを伴った「私は私だ」「私はこういう人間として私だ」という自己同一性が成り立つためには、絶えず言葉による確認が必要とされるということか。

ここでガンガジの言葉を参考にしてみよう。

「あなたがあなたの真実の姿に気づくのを阻む唯一のものこそが、この『私とはこの肉体である』という自我にのっとた思い込みなのです。この思い込みを持ち続けるためには、あなたが自分はこういう人間だと抱いているイメージに沿った、絶え間のない思考活動が必要です。この思考活動を止め、代わりに『自分』という中心の思考の内側に意識を向けたとき、あなたは、本質的にどんな思考も防衛の必要性も存在しない、無限の、純粋な意識を発見します。それがわかったとき、自我とは、夢やトランス状態が幻想に過ぎないのと同じように、ただの幻想にすぎないことを理解するでしょう。」(『ポケットの中のダイヤモンド―あなたはすべてをもっている

「日常的な思考」を観察していると、そのほとんどが何らかの形で「自己」に関係し、自己を防衛したり、強固にしたり、拡大したりすることを巡ってなされていることに気づくだろう。思考によって「自己」が紡ぎ出され、逆に「自己」がその幻影を維持するために、思考を生み出す、そんな相補的な関係が成り立っているのか。そして耐えざる日常的な思考がもはや必要でなくなったとき、「自己」という幻影も消えていくのだろうか。

思考と「自己」との関係は、このように根源的な問題に触れている。今後、もっと考察を深めていきたい。
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