久しぶりの書き込み。持ち帰りの仕事があったりして忙しかった。
最近感じたことのひとつ。たとえばふだん同僚と何気ない会話をしている。ありきたりの世間話だったりする。その時、ふと利害関係がからむ話題が出る。相手の表情が一瞬、真剣になる。
そんな時に思ったのだが、表面的には私たちは「世間」によって拘束されたごく平凡な日常、ごく平凡な人間関係を生き、その中で泣いたり、笑ったりしている。しかし、ごく平凡な世間話をする二人の間には、互いに全く自覚できないような深みでの出会いも起こっている。そして、そのような深みで相互に影響し合っている。
世間話の中でふと彼の表情が真剣になった。苦悩の色さえみえた。何かを避けようとしている。彼の中の怯え。しかし、もっともっと深いところには、苦悩や怯えに影響されない静謐がある。そのようなところでも影響し合っている。
家族、妻や子どもとの関係においても、職場での、友人との、あるいは、混雑する電車の中で偶然に隣に立っていた人との関係においても、日常的な表面的なかかわりを超えた深いところで、いつでも私たちは出会っている。
限りある命としてこの世に投げ出された存在として出会っている。同時に限りある命を超えた存在として出会っている。人間関係の中でこのような視点を忘れないでいよう。
最近感じたことのひとつ。たとえばふだん同僚と何気ない会話をしている。ありきたりの世間話だったりする。その時、ふと利害関係がからむ話題が出る。相手の表情が一瞬、真剣になる。
そんな時に思ったのだが、表面的には私たちは「世間」によって拘束されたごく平凡な日常、ごく平凡な人間関係を生き、その中で泣いたり、笑ったりしている。しかし、ごく平凡な世間話をする二人の間には、互いに全く自覚できないような深みでの出会いも起こっている。そして、そのような深みで相互に影響し合っている。
世間話の中でふと彼の表情が真剣になった。苦悩の色さえみえた。何かを避けようとしている。彼の中の怯え。しかし、もっともっと深いところには、苦悩や怯えに影響されない静謐がある。そのようなところでも影響し合っている。
家族、妻や子どもとの関係においても、職場での、友人との、あるいは、混雑する電車の中で偶然に隣に立っていた人との関係においても、日常的な表面的なかかわりを超えた深いところで、いつでも私たちは出会っている。
限りある命としてこの世に投げ出された存在として出会っている。同時に限りある命を超えた存在として出会っている。人間関係の中でこのような視点を忘れないでいよう。