瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

いつ変化が、そして何が

2005年11月24日 | 瞑想日記
Mercyさんは、次のように言っていた。

「Noboruさんは、ヴィパッサナー瞑想をずっとやってきたけれど、ブログや掲示板から受ける感じは、ずっと変わらなかった。しかし最近、変化があった。その変化は、SRKWブッダさんがブログのダイアリーのコメントに「無明云々」と書いたとき以来ではないか」と。

もちろん私自身にも最近何かが変化したという自覚はあるのだが、それは夏の瞑想合宿以来のことだと感じていた。SRKWブッダさんのコメント以来とは思ってもいなかった。私にとっては、瞑想合宿で妻や家族との関係が問われて以来の変化という一貫した自覚があったが、Mercyさんは、「無明」のコメント以来、内面でどんな変化があったが、じっくり探ってみるのも大切だと言っていた。

ところで私自身が自覚する変化とは何だろうか。これは答えるのが難しいのだが、今日感じたのは、いろいろな意味での執着が少なくなってきているということか。今、私がいちばん関心があるのは、自分自身が今後どのように変わっていくかということであって、それ以外のもろもろのことは二の次になっているような気がする。無自覚の劣等感の補償として何かを目指すということが、あまりなくなっている。
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Shioさんにもお会いする

2005年11月23日 | 瞑想日記
Mercyさんのところの講座では、Shioさんにもお会いした。Shioさんは、覚醒・至高体験事例集の「光をともなう場合」にその体験を掲載させていただいている。Shioさん

私のサイトでMercyさんのところの講座を知り、最初から参加しているとのこと。Shioさんのブログで、彼女も講座に参加していることは知っていたのでお会いするかもしれないとは思っていた。Mercyさんは、私が来ることを彼女に知らせてはいなかったので、お会いしたとき、「私は誰でしょう」と当ててもらうのが、とても楽しかった。Mercyさんを介して互いにかかわりのある人は限られているからか、Shioさんもすぐに私と分かったが。

Shioさんも最近、朝食抜きに取り組み、体にあっていたのか、だいぶ調子がよいとのこと。詳しくは、こちらをご覧いただきたい。My life

Shioさんはまた、Mercyさんのところのクリヤーヨーガの講座のことにつていは、こちらに書いている。真理への道

Mercyさんのブログ(20日の日記参照)も更新され、20日の講座のことなどに触れている。
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心解脱と慧解脱

2005年11月21日 | 瞑想日記
Mercyさんの話から印象に残ったことを思い出すままに書く。私が来るというのでアドバイスをと思い考えていたことが二つあったという。ところが驚いたことに、その二つの内容が2005/11/17 (木)の「喪失や痛みの経験から」にすでに書かれていたという。Mercyさんは、「私がアドバイスしようと思っていたことを深いところで感じ取っていたのかもしれない」と本当に驚いた様子だった。

17日の日記の前半は、妻との関係で心を「もっと透明にしていくこと」、エゴで色づけられない心、エゴを超えた視点で妻の言葉を受け止めること、妻との関係の中で大切なことを学んでいくことなどに触れた。Mercyさんは、こちらを心解脱に関係するという。ハートが開くことに関係する。ハートが開くときには、名称(ナーマ)は認識できない。形態(ルーパ)は分かるが名称は分からなくなるという。それによってハートが開いたことが分かるという。こちらは名称の解脱と呼ばれる。

17日の日記の後半は、仏教でいう諸行無常、一切は生滅変化するということに触れていた。「人が生きるということのもっとも深くに組み込まれた苦を、深いレベルで味わうことによってスピリチュアルな次元に開かれていく。」」これは、慧解脱に関係するという。慧解脱はむずかしい。これは形態(ルーパ)の解脱といわれる。心解脱では煩悩は残るが、慧解脱では煩悩の消滅が起こる。

以上は、体験のない私にはむずかしいが、大胆に私なりに捉えると、心解脱、名称の解脱は、言語や文化的な条件付け(枠組み)から自由にものを見ること、言語的な認識の枠組みから解放されるレベルのことではないだろうか。慧解脱、形態の解脱は、もっと奥深い生命そのものの条件付け(煩悩)からも解放されることなのか。

Mercyさんは、このお話の関連でラマナ・マハリシに触れ、彼の臨死体験がいちばん信用できるという。彼の場合は、心解脱と慧解脱が、同時にいっきに来たのではないかとのことだ。
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Mercyさんの講座に参加

2005年11月20日 | 瞑想日記
MercyさんのMercy Blogに「第6回入門講座のご案内」というのが出ていた。Mercyさんが講座を開いているのは知っていたが、この案内を見て思い切って参加して見ようという気になった。大阪だが日帰りは可能だろうと思い詳しく調べもせず、すぐにメールを出した。私の中では講座内容よりMercyさんにお会いして、いろいろ話がしたいというのが第一だった。

Mercyさんのお返事は、「日帰りでわざわざ来るほどのものでも」というニュアンスのだったが、続けてのメールでは「会場の『ラベンダー』に一泊する形はどうか」とあった。一泊は考えていなかったのだが、今回はその後の日程からも行きやすい条件だったので、お言葉に甘えることにした。

昨日10時に自宅を出て10時54分の新幹線にのり、14時50分ごろに会場着。ウェブ上では長い知り合いであるMercyさんと、初めてのご対面となった。私の方は予めどんなイメージの人という予想はあまりなかったのだが、Mercyさんは、予想した私のイメージと現実の私とはかなり違っていたらしい。もっと痩せた小柄な人を想像していたとのこと。最近私はだいぶ痩せたのが、まだ痩せたりなかったか。

Mercyさんは、とても親しみやすい感じの気さくな人で、すぐにこれまでのサイトや掲示板を通じての交流にまつまる様々な話に入り込んでしまった。講座は、クリヤ・ヨーガの講座で、いきなり6回目に参加する私への特別講義も必要だったようだが、講義にはなかなか入れず、Mercyさんもどこから講義に切り替えようかちょっと迷ったようだ。結局後半の半分くらいの時間をこれまで5回の講座の要約という形で講義(一部実習)をしていただいた。

講義のことや、印象に残った話のことなどはおいおい触れたいと思う。充実した二日間であった。
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喪失や痛みの経験から

2005年11月18日 | 瞑想日記
◆エゴを超えたところで
夏の瞑想合宿から3ヶ月、これまで妻との間は全く問題なかったのだが、この一週間、私が妻の言葉に腹を立てることが3度ほどあった。3ヶ月たって私の方に合宿のときの気持ちを忘れかけたところがあったかもしれない。一方で、またまた合宿の最中のように妻と生き方や価値観の上でますます乖離していくような淋しさ、孤独感が湧きあがった。

今日、私に浮かんだのは「私がもっともっと透明になっていけばいいのだ」という言葉だった。「透明」というのは、要するにエゴで色づけられない心でということだ。妻の言葉につい腹をたててしまうのはエゴ。エゴを抑圧するのではなく、エゴを超えた視点で妻の言葉を受け止める。妻の言葉への反応で自分のエゴが見え、エゴを超えたところで受け止めることを学ばされている。私は妻との関係の中で大切なことを学んでいくもののようだ。

そして「慈悲の瞑想」を、私が地橋先生から感じとったような「透明」な波動として妻に届くよう集中して行うようになっていくだろう。

◆命そのものの苦
The Power of Now を読んでいて次のような文章に出会った。

You must have failed deeply on some level or experienced some deep loss or pain to be drawn to the spiritual dimension.

人は、ある程度手痛い失敗をするか、深いところでの喪失や痛みを経験することで、スピリチュアルな次元に引き寄せられる。

たぶんこの文章だと思う、あるいはもう少し前の文章だったかもしれない。読むとすぐ何かが胸にジーンと響いてきた。最近こういう読み方が増えているようだ。バイブレーションが直接伝わってくるような感じだ。

この文章から感じたのは、仏教でいう諸行無常、一切は生滅変化するということ。それは、人が生きるということのもっとも深くに組み込まれた苦だ。その苦を、深いレベルで味わうことによってスピリチュアルな次元に開かれていく。現実の生活において失敗や病気や別離の苦しみがあってもなくても、生滅変化する命そのものの苦に深い次元で出会うことが、覚醒への道につながる。そういうことだった。
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