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日常生活の中で思ったこと、感じたことを気の向くままに書き綴っています。

-真夏の夜の自由談話Ⅵ ~ 安倍総理の70年談話について2-(GHQ焚書図書開封 第187号)

2022-09-24 13:47:36 | 近現代史

【GHQ焚書図書開封】第187号

真夏の夜の自由談話Ⅵ ~ 安倍総理の70年談話について2

第一次世界大戦のドイツに対する報復として、今度戦争が起きたら国際司法裁判所において敗戦国を戦争責任で裁く方法をルーズベルトとチャーチルの大西洋洋上会議で決めていた英米。

「侵略」の定義があいまいな1928年の不戦条約の法的根拠がニュルンベルク裁判、東京裁判を支配した。

正しい戦争という観念が、力のある者が力のない者に対して神の立場にたって上から裁くことを生み出した。この考えは、3,4世紀の聖アウグスチヌスの「正しい信仰に導くためには、暴力的な手段を取っても許される」というキリスト教的信仰からきている。

戦勝国は敗戦国(悪い国)の主権侵害、内政干渉をしても良いということ。

国際法の父フーゴー・グロチウスが「戦争と平和の法」の中で述べた「争う2つの国家の上に裁きの場がある」という考えが、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の戦間期に採用された。

「武器貸与法」という中立国がしてはならない国際法違反の法律をつくったロバート・ジャクソンがニュルベルグ裁判の主任検事をし、その考えを受け継いだキーナンが東京裁判の首席検察官を務めた。

「攻撃」(aggression)を東京裁判で「侵略」と誤訳したことから漢字圏の国々の間で残虐な侵略(invasion)と同じ意味にとられ広がってしまった。

現代世界は、平和の名において地域戦争、代理戦争が行われている。

核を持たない国は、核を持つ国に威嚇される運命にある。

その淵源は「不戦条約」にある。そして、戦争が起きても常に大国は処罰されないということである。

※安倍総理の70年談話内容(首相官邸HPより)

終戦七十年を迎えるにあたり、先の大戦への道のり、戦後の歩み、二十世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます。

 百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。

 世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。

 当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。

 満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。

 そして七十年前。日本は、敗戦しました。

 戦後七十年にあたり、国内外に斃れたすべての人々の命の前に、深く頭を垂れ、痛惜の念を表すとともに、永劫の、哀悼の誠を捧げます。

 先の大戦では、三百万余の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦陣に散った方々。終戦後、酷寒の、あるいは灼熱の、遠い異郷の地にあって、飢えや病に苦しみ、亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦などによって、たくさんの市井の人々が、無残にも犠牲となりました。

 戦火を交えた国々でも、将来ある若者たちの命が、数知れず失われました。中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では、戦闘のみならず、食糧難などにより、多くの無辜の民が苦しみ、犠牲となりました。戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。

 何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません。

 これほどまでの尊い犠牲の上に、現在の平和がある。これが、戦後日本の原点であります。

 二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。

 事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。

 先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました。七十年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たちは、静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。

 我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。

 こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。

 ただ、私たちがいかなる努力を尽くそうとも、家族を失った方々の悲しみ、戦禍によって塗炭の苦しみを味わった人々の辛い記憶は、これからも、決して癒えることはないでしょう。

 ですから、私たちは、心に留めなければなりません。

 戦後、六百万人を超える引揚者が、アジア太平洋の各地から無事帰還でき、日本再建の原動力となった事実を。中国に置き去りにされた三千人近い日本人の子どもたちが、無事成長し、再び祖国の土を踏むことができた事実を。米国や英国、オランダ、豪州などの元捕虜の皆さんが、長年にわたり、日本を訪れ、互いの戦死者のために慰霊を続けてくれている事実を。

 戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか。

 そのことに、私たちは、思いを致さなければなりません。

 寛容の心によって、日本は、戦後、国際社会に復帰することができました。戦後七十年のこの機にあたり、我が国は、和解のために力を尽くしてくださった、すべての国々、すべての方々に、心からの感謝の気持ちを表したいと思います。

 日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。

 私たちの親、そのまた親の世代が、戦後の焼け野原、貧しさのどん底の中で、命をつなぐことができた。そして、現在の私たちの世代、さらに次の世代へと、未来をつないでいくことができる。それは、先人たちのたゆまぬ努力と共に、敵として熾烈に戦った、米国、豪州、欧州諸国をはじめ、本当にたくさんの国々から、恩讐を越えて、善意と支援の手が差しのべられたおかげであります。

 そのことを、私たちは、未来へと語り継いでいかなければならない。歴史の教訓を深く胸に刻み、より良い未来を切り拓いていく、アジア、そして世界の平和と繁栄に力を尽くす。その大きな責任があります。

 私たちは、自らの行き詰まりを力によって打開しようとした過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる紛争も、法の支配を尊重し、力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべきである。この原則を、これからも堅く守り、世界の国々にも働きかけてまいります。唯一の戦争被爆国として、核兵器の不拡散と究極の廃絶を目指し、国際社会でその責任を果たしてまいります。

 私たちは、二十世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、そうした女性たちの心に、常に寄り添う国でありたい。二十一世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしてまいります。

 私たちは、経済のブロック化が紛争の芽を育てた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる国の恣意にも左右されない、自由で、公正で、開かれた国際経済システムを発展させ、途上国支援を強化し、世界の更なる繁栄を牽引してまいります。繁栄こそ、平和の礎です。暴力の温床ともなる貧困に立ち向かい、世界のあらゆる人々に、医療と教育、自立の機会を提供するため、一層、力を尽くしてまいります。

 私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。

 終戦八十年、九十年、さらには百年に向けて、そのような日本を、国民の皆様と共に創り上げていく。その決意であります。

                     平成二十七年八月十四日

                     内閣総理大臣  安倍 晋三

参考文献:『膨張するドイツの衝撃』西尾幹二、川口マーン恵美、『日米開戦 陸軍の勝算「秋丸機関」の最終報告書』林 千勝

2015/09/23 に公開


-真夏の夜の自由談話Ⅴ ~ 安倍総理の70年談話について1-(GHQ焚書図書開封 第186号)

2022-09-23 17:29:24 | 近現代史

【GHQ焚書図書開封】第186号

-真夏の夜の自由談話Ⅴ ~ 安倍総理の70年談話について1-

書き出しは、「帝国政府声明」に沿った戦争目的のアジアの植民地解放を匂わせながら、途中から一転して東京裁判史観を踏襲した安倍談話。

これは、21世紀構想懇談会座長の北岡伸一氏の敗戦自虐史観の影響を受けた内容であった。

 開戦5年前の昭和11年、地球上の60%は英米仏ソの4か国の領土であった。日本の人口は世界人口の1/30の7,200万人、占領地は0.25%。そんな中で、ブロック経済化により日本に制裁をかけた連合国に対し、自存自衛、欧米からのアジア植民地解放、人種差別撤廃の願いとアジア経済圏構築を求めた日本を、英米本位の世界秩序を乱すものとして悪者扱いにした。

 戦争が起こった要因は経済的な面だけでなく、4つのイデオロギー

①ドイツ、フランス、スペイン、イタリア、南アメリカなどのファッシズム、

②ロシア、中国、ベトナム、キューバ、カンボジアなどのコミュニズム

③アメリカ、イギリス、フランス、ベルギー、オランダなどの白人文明覇権思想(帝国主義)

④日本を中心とするアジアはひとつという思想(防衛思想)の対立も考慮に入れなければならない。

 第1次世界大戦の敗戦国ドイツを「戦争責任」で処罰できなかった英米の怨念がニュベルグ裁判、東京裁判で晴らされることになった。

 第二次世界大戦後、ドイツは、侵略戦争に対して謝罪していない、ナチスのやったことに対して責任をとっただけ。

 日本は、侵略戦争だったと決めつけられ責任を取らされた。

 「政治」と「外交」と「歴史」は違うとの安倍首相の見解がせめてもの救い。

 

※安倍総理の70年談話内容(首相官邸HPより)

 終戦七十年を迎えるにあたり、先の大戦への道のり、戦後の歩み、二十世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます。

  百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。

  世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。

  当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。

  満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。

  そして七十年前。日本は、敗戦しました。

  戦後七十年にあたり、国内外に斃れたすべての人々の命の前に、深く頭を垂れ、痛惜の念を表すとともに、永劫の、哀悼の誠を捧げます。

  先の大戦では、三百万余の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦陣に散った方々。終戦後、酷寒の、あるいは灼熱の、遠い異郷の地にあって、飢えや病に苦しみ、亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦などによって、たくさんの市井の人々が、無残にも犠牲となりました。

  戦火を交えた国々でも、将来ある若者たちの命が、数知れず失われました。中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では、戦闘のみならず、食糧難などにより、多くの無辜の民が苦しみ、犠牲となりました。戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。

  何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません。

  これほどまでの尊い犠牲の上に、現在の平和がある。これが、戦後日本の原点であります。

  二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。

  事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。

  先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました。七十年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たちは、静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。

  我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。

  こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。

  ただ、私たちがいかなる努力を尽くそうとも、家族を失った方々の悲しみ、戦禍によって塗炭の苦しみを味わった人々の辛い記憶は、これからも、決して癒えることはないでしょう。

  ですから、私たちは、心に留めなければなりません。

  戦後、六百万人を超える引揚者が、アジア太平洋の各地から無事帰還でき、日本再建の原動力となった事実を。中国に置き去りにされた三千人近い日本人の子どもたちが、無事成長し、再び祖国の土を踏むことができた事実を。米国や英国、オランダ、豪州などの元捕虜の皆さんが、長年にわたり、日本を訪れ、互いの戦死者のために慰霊を続けてくれている事実を。

  戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか。

  そのことに、私たちは、思いを致さなければなりません。

  寛容の心によって、日本は、戦後、国際社会に復帰することができました。戦後七十年のこの機にあたり、我が国は、和解のために力を尽くしてくださった、すべての国々、すべての方々に、心からの感謝の気持ちを表したいと思います。

  日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。

  私たちの親、そのまた親の世代が、戦後の焼け野原、貧しさのどん底の中で、命をつなぐことができた。そして、現在の私たちの世代、さらに次の世代へと、未来をつないでいくことができる。それは、先人たちのたゆまぬ努力と共に、敵として熾烈に戦った、米国、豪州、欧州諸国をはじめ、本当にたくさんの国々から、恩讐を越えて、善意と支援の手が差しのべられたおかげであります。

  そのことを、私たちは、未来へと語り継いでいかなければならない。歴史の教訓を深く胸に刻み、より良い未来を切り拓いていく、アジア、そして世界の平和と繁栄に力を尽くす。その大きな責任があります。

  私たちは、自らの行き詰まりを力によって打開しようとした過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる紛争も、法の支配を尊重し、力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべきである。この原則を、これからも堅く守り、世界の国々にも働きかけてまいります。唯一の戦争被爆国として、核兵器の不拡散と究極の廃絶を目指し、国際社会でその責任を果たしてまいります。

  私たちは、二十世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、そうした女性たちの心に、常に寄り添う国でありたい。二十一世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしてまいります。

  私たちは、経済のブロック化が紛争の芽を育てた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる国の恣意にも左右されない、自由で、公正で、開かれた国際経済システムを発展させ、途上国支援を強化し、世界の更なる繁栄を牽引してまいります。繁栄こそ、平和の礎です。暴力の温床ともなる貧困に立ち向かい、世界のあらゆる人々に、医療と教育、自立の機会を提供するため、一層、力を尽くしてまいります。

  私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。

  終戦八十年、九十年、さらには百年に向けて、そのような日本を、国民の皆様と共に創り上げていく。その決意であります。

                      平成二十七年八月十四日

                      内閣総理大臣  安倍 晋三

人種差別撤廃:https://www.youtube.com/watch?v=zcaxTojnFSc

 引用元:安濃博士のブログ(帝国政府声明文 「戦勝国は日本だった」)

 参考文献:『膨張するドイツの衝撃』西尾幹二、川口マーン恵美、

『日米開戦 陸軍の勝算「秋丸機関」の最終報告書』林 千勝

2015/09/09 に公開


-真夏の夜の自由談話Ⅳ ~ ドイツよ、日本の「戦後処理」 を見習え-(GHQ焚書図書開封第185回)

2022-09-17 05:27:53 | 近現代史

GHQ焚書図書開封第185回

 真夏の夜の自由談話Ⅳ ~ ドイツよ、日本の「戦後処理」 を見習え

日本を自分達の歴史の共犯者にしたいドイツ。

 日本の外務省は白痴集団。

 韓国の跳梁跋扈を許したのは、朝日新聞が1995年「深き淵より/ドイツ発日本」の連載を始めた時からだ。

その中で、ハーフ元駐日大使は、ドイツ軍がウクライナでソ連からの解放軍として迎え入れられ歓迎されたが、すぐに支配的になり嫌われた例をあげ、日本も東南アジアで同じことをしたことに反省すべきだと述べたが、日本は東南アジアの国々から嫌われただろうか?

ヒットラーのプログラムでは全ユダヤ人の絶滅の後、全ポーランド人、全ウクライナ人、全ロシア人の絶滅が予定されていた。

 一方、日本は東南アジアにおいて、全フィリピン人、全インドネシア人、全インドシナ人の絶滅など一切考えていなかった。

 歴史的事実に違うことに対し、堂々と反論しない日本の政府要人。海部首相も江沢民から戦争中の事に対してドイツの元駐日大使の発言を引用され非難されたが、ナチスと日本とは違うとはっきり反論しなかった。

ドイツは、ナチス独裁が選挙によって維持された20世紀型テロ国家であり、SS(突撃隊)、SA(親衛隊)、強制収容所、秘密警察が存在した。

 一方、日本は神権国家であり、指導者と国民が一体となっており、一種の運命共同体であった。

1992年7月の日弁連(共産主義者が指導)のシンポジウムで慰安婦問題とドイツの個人補償がテーマにされ、今日まで続く慰安婦問題に火が付いた。

ドイツは分断国家だったため、どの国とも講和条約を結んでおらず、国家賠償をしていないので、個人補償で解決した。

 日本は旧交戦国と講和条約を結び、国家賠償を済ませ解決した。従って、個人補償をする必要がなかった。

 後に、ギリシャ、イタリアがドイツに対して国家賠償を求めて裁判を行ったが国際司法裁判所で敗訴している。その理由は、余りにも時間が経ちすぎているし、戦後ドイツがヨーロッパに貢献したことを考えれば、遅きに失したというものであった。これは、韓国や中国の日本に対するものと随分違う結果であった。

 反日日本人や、反日マスコミに扇動された無知な国民が日本を貶める行為をやっている。

ドイツは、国家賠償をしようとすればできただろうが、ドイツ民族全体に関わる集団の罪は認めたくなかった。戦争犯罪の罪は個人の犯罪とし、ナチス指導者や実行犯に責任転嫁した。個人の犯罪だから国家賠償とせず、個人補償としたのである。

 戦後、日本はアメリカのマーケット〈一時は貿易収支の4割に達した)と取引することで復興したが、ドイツは隣国フランスなどヨーロッパ諸国との取引(7割を占めた)によって復興した。ドイツにとって隣国はフランスであったが、日本にとっての隣国はアメリカであった。また、ドイツにとってのロシアは日本にとっての中国であり、ドイツにとってのポーランドは日本にとっての韓国といった力関係であった。

 新生ドイツは、ナチスから解放された被害者であって、過去のドイツでないとうそぶくドイツ。新生ドイツ青年男子の50%がナチ党の協力者であったことは事実なのに・・。

ドイツの哲学者カールヤスパースは「責罪論」で国家は道徳的責任を負わず、政治的責任を負うとし、道徳的責任を個人に負わす理論を確立しドイツ民族を救った。

 参考文献:「膨張するドイツの衝撃」西尾幹二、川口マーン恵美

2015/08/26 に公開


-真夏の夜の自由談話Ⅲ ~ EUの全体が見えないドイツの 暴走-(GHQ焚書図書開封第184回)

2022-09-13 15:23:03 | 近現代史

GHQ焚書図書開封第184回

 真夏の夜の自由談話Ⅲ ~ EUの全体が見えないドイツの 暴走

EUが人の移動の自由を許してしまった結果、南の国のコンピュータ技師など頭脳労働者は北の国の金になる仕事を求めて、移動し北の国に定着してしまった。

 実際、ドイツには、イタリア人60万、ギリシャ人33万、スペイン、ポルトガル人10万住み、ドイツのために働いている。北欧の国々も同様である。

EUにおけるドイツの位置は、日本における大都市東京と地方都市との関係に似ている。違うのはEUは一つの国家でないことだ。

 日本が地方交付金で廃れた地方都市を支えるのと同様にユーロ安で独り勝ちしているドイツは疲弊した南ヨーロッパ、東ヨーロッパを援助する義務がある。

 金融危機に対し期待していたグローバリズム(人、モノ、金の自由化)は無力であった。

ギリシャ、スペインの不始末でユーロ安になり、安い労働力を移民で受け入れたドイツが独り勝ちし、労働力を失った国家側は疲弊する一方の経済構造。

 軍事力の背景の無い通貨統合は危険であることが証明された。

EUを隠れ蓑にして東ヨーロッパへ覇権拡大、スターリニズム中国への急激な接近を目論むドイツ。

 中国の株暴落など中国のマイナス面を報道しないドイツのメディア。

EU離脱派(イギリス、ハンガリー)残留派(ギリシャ、イタリア、スペイン)、EU維持派(スェーデン、バルト三国、ポーランド)、EU加盟希望(ウクライナ)

EU圏内でドイツと戦うにはEU離脱しかない。

8,000万人のドイツの人口の20%(1,600万人)が外国人労働者(帰化人を含む)となっており、やがて、多民族国家に変貌しドイツ独自文化の維持が困難となるだろう。

トルコ人は同化している。ドイツ国内ではアラブ諸国出身でドイツ国籍をもったイスラムのウルトラ過激派サラフィストに悩んでいる。

 参考文献:「膨張するドイツの衝撃」西尾幹二、川口マーン恵美、「ディープステート」馬渕睦夫、「THE ROTHCHILD」林千勝

2015/08/18 に公開


 -真夏の夜の自由談話Ⅱ ~ 閉ざされた韓国文化と日本-(GHQ焚書図書開封第183回)

2022-09-10 14:59:08 | 近現代史

GHQ焚書図書開封第183回

 -真夏の夜の自由談話Ⅱ ~ 閉ざされた韓国文化と日本-

 約束を守らないのは、韓国も北朝鮮も同じ。韓国も北朝鮮も全体主義国家。

ドイツは典型的な反日国家。日本は掟を持たない国。神神習合は主体的な宗教。

 中韓は全く近代国家ではない。「自国の批判をする韓国人は存在を許されない」と韓国人作家 金 完燮(김완섭、キム・ワンソプ)まで弾圧する全体主義国家の韓国。

 韓国反日の理由は、日本統治だけではない。歴史、宗教等の文化的な要因がある。

 本貫、族譜によって管理される韓国。

 両班、中人、常民、賎民の階級社会が韓国。日本人は最下級の奴隷階級と考えている韓国。

 日本文明は外交遮断型文明。

 韓国文明は自己中心的で客観性がない。

 価値とルーツを混同する韓国の小中華主義的発想。

 韓国の知性は落下しきっている。

 日本には命令する、決定する、判断する絶対的な神は存在しない。

 日本の鎖国は10世紀からはじまっている。

 戦国時代後の鎖国は第一の開国。

 朝鮮半島は中国とやりあって最後は呑み込まれた。

 日本は鎖国によって独自の文明を作り上げた。

 日本は中国に対して鎖国をしていた。西洋文明には薄目で注目していた。

 日本には中国文明を断固拒絶する思想が育っていた。

 韓国では中華よりも小中華が偉大であった。

 筑波大古田博司氏の「教えず、助けず、関わらず」が対韓外交の基本

 韓国に何度も騙され続けてきた日本

2015/7/29公開


-真夏の夜の自由談話Ⅰ~ユネスコ歴史遺産登録問題-(GHQ焚書図書開封 第182回)

2022-09-04 13:05:12 | 近現代史

【GHQ焚書図書開封】第182回

-真夏の夜の自由談話Ⅰ~ユネスコ歴史遺産登録問題-

 軍艦島の世界遺産登録について、古田博司氏呉 善花(オ・ソンファ)氏が警告した通りになった。岸田文雄外相と菅義偉官房長官が日本国民向け発言した内容とは真逆に、外国では日本の恥部として報道されている。自民党の額賀福志郎、二階俊博、森喜朗氏の対韓、対中姿勢が日本を苦境に追い込んできた。ドイツは元々反日国家であった。そのドイツを利用して日本を貶めた韓国。古田博司氏の「教えず、助けず、かかわらず」が対韓外交の基本ではないだろうか?

 外国に対する広報活動(日本語を英訳するなど)に金をつぎ込むべきで、「クールジャパン」などの宣伝用建物に700億使うべきでない。

 日本の立場、意見を広報する外国向け放送にほとんど寄与していないNHKは解体すべきだ。

 663年の白村江の戦いで百済の王侯などが、日本に流入したが、当時の日本の人口は500万で、流入した人口は1,000~2,000人程度で、日本に同化していった。

縄文尺(長さの基準。35センチ)が存在したこともわかっている。この尺は、福井県から北海道に至る縄文時代の他の大型住居跡にも当てはまる。

前方後円墳は、日本列島全土を覆っている。言語も違う。琉球語は日本語との類似性があるが、朝鮮語とアイヌ語は、日本語と全く別物。

参考図書:「絶滅危惧種だった大韓帝国」安藤豊

2015/07/15 に公開


-破戒-(GHQ焚書図書開封 第181回)

2022-09-03 21:43:10 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第181回

-破戒-

■母と共に

四方八方の敵トーチカ陣地から、集中射撃を浴びながら、○部隊の勇士たちは、ひしひしと敵陣に肉迫していった。すべては火であり轟音である。

 潅木の蔭から、二三米先の砲弾の落下穴まで突撃しようとした途端、軽部上等兵は、破片弾に左下腹部を削られ、どっと崖下に転がり落ちた。踵を返して、同じ穴に突っ込んだ村井安一上等兵が射撃中、死んだと思った軽部上等兵が、崖を上って這いこんできた。下腹部を押さえて、

 「縛ってくれ」という。

 腸が露出しているのを手で押し込んでいる。直ぐ三角巾で縛ってやると、苦痛な顔も見せず微笑さえ浮かべて、ポケットからお守袋を取り出した。

 「俺が倒れたら、これを頼む。シンガポール入場式を、この袋にみせてやってくれ。」

と、村井上等兵に手渡すと、後方へ下がって治療せよとの勧めも聞かず、またもや手榴弾を握って前進した。

 一物もない原っぱを、遂にトーチカへ辿りつき、軽部上等兵は、銃眼から手榴弾を投げこみ、護国の神と化した。4:56

さて、お守りの袋の中には、一枚の母の葉書が入っていた。

 「・・・・見送りには行けないが、命をささげてご奉公して下さい。お召しがあった日からお前の命は、もうお国に差し上げたものと覚悟しています・・・」

という意味が、素朴な鉛筆書きながら、わが子を励ます健気な母の赤心があふれていた。

 我々は最後のひとりとなるまでも、このお守りを渡しあって、一緒に入城しよう。

 基地の戦友たちは、誓い合った。

この母に、この子あった、日本は神戚の国である。日清、日露、満州、支那事変、いつの時代にも、勇士を生んだ母は実に多い。7:06

 

 ■手紙

 開戦三日目の12月10日のことである。

マニラ上空を、某一飛曹機は縦横無尽に荒れ回っていた。逃げる敵機に食い下がって、叩きつけていたが、遂に敵弾をうけてしまった。

 隊長機は、しきりに帰還を合図したが、某一飛曹機は必死の操縦を続けているうちに、力尽き、隊長に対して決別の挙手の礼を残し、にっこり笑うと、敵機めがけて体当たりをくらわし、諸共に壮烈な最後をとげてしまった。その二日後の攻撃に際し、某一飛曹の散った洋上に、僚友は花束を投げて、空から英霊を慰めた。

 戦死した一飛曹の母親から、僚友たちへ宛てた手紙が届いた。

 「1月2日公報に接しましたとき、もしや醜き最後をとげたのではないかと、それのみ案じておりましたが、色々とお話を承り、いささか安堵いたしました。

 何よりも残念なことは、大東亜戦争開始早々に死んだことです。せめてマニラの陥落を見るまで存命、いささかの武勲を樹てて、皆様のご期待に沿いえたら、本人もどんなにか満足して死んだことと思います。この上は長男も軍人として、現在北満の野にあり、弟も軍人として、あの子の足りない分まで、ご奉公いたさせますれば、若くして死んだあの子の儀は、なにとぞお許しくださいませ。銃後国民として辱しからぬよう努めておりますればご安心くだされたく、お願い申し上げます。」

 敵機も、敵弾も恐れぬ勇士が、この母の手紙には泣いたという、偉大なるは日本の母の力である。

 日清戦争当時、『水兵の母』という話があったのを思い出す。肺腑をえぐる母の赤心、或るときは暖かき陽のごとく、或るときは峻厳なる鞭となり、子を思い、子を鍛え、己の身を削る。

 

 ■母の力

 明治維新前の風雲急を告げるさなか、井上聞多は城下にて、怪漢に襲われた。兄が駆けつけた時には、もう聞多は虫の息だった。聞多の友人、所郁太郎が荒療治をしたが、人事不肖は長く続いた。やがて意識づいた聞多は、しきりに手真似で、

 「首を斬ってくれ。」

 兄も情に忍びず、首背(うなづ)いて刀に手をかけた。

その時である。駆けつけてきた母が。

 「エッ、待っておくれ、何というお前は恐ろしいことをする。まだ息のある弟を、刺殺そうなどというのは、容易ならぬこと。殊にわたしの眼の黒いうちは、たとえ如何なることがあっても、そういう理不尽なことはさせませぬ。殺すならこの母を殺しておくれ。」

 言々句々実に血の涙であった。さすがの兄も思いとどまったが、更に母は、

 「わたしの力で、必ず元のからだにしてみせる。」

 必死の母の力は、一日一日と効きめを現して、やがて日ならずして、聞多は治癒した。

この母の力あってこそ、明治の元勲として、偉大なる功績を残した井上馨があったのである。18:20

 

 ■鑑識

 有名な両替屋の伝説に言う。

 両替屋渡世には、金銀の良し悪しを見分けるのが、第一肝要なので、この見分け方を、初心の小僧に教えますには、初めから悪銀を一度も見せず、良銀ばかりを毎日見せまして、しっかりと良銀を見覚えたときに、それとなく黙って悪銭を見せますと、忽ち一日で見破ること、鏡に照らして物を見るようでございます。今まで最上の銀をしっかり見覚えていたからなので、このように教え込んでおきますと、この小僧、一生の間、悪銀を見損ずることはござりません。22:20

 

 ■子を鍛ふ

武蔵忍の城主阿部正武の長子正喬が、朝夕に父正武の食膳の給仕をする。しかも極めて丁寧であった。

 正武の食事が済んだ後、正喬は次室で食事をするという習慣であった。

さる人が正武に言った。

 若様はいつも次室で食事をされますが、あれでは気の毒ではありませぬか。

 正武、打ち笑って

「正喬が私に仕える有様を、私が亡父に仕えた有様と比べると、殆ど比べものになりません。親子の情として誰でもその子に楽をさせようとするが、しかし年若い者が自分で勤労しないで、善事をなし遂げるものは少ない。年若い時から労苦に慣れるのは、

 他日官に仕えて立派になる道で、ただ人の子としての礼ばかりではありません。と答えた。

 

 ■新宅

 同じような話がある。

 某出版会社社長、副社長である長男に嫁御を迎えたが、新婚の新宅は、何と経営会社の狭い二階とあった。

そこで一社員が、

 「いくらなんでもそれでは、お二人がかわいそうじゃありませんか」

すると、社長、意外な顔をして、

 「いや、いけませんな、うちの会社へ、子供が新居を構えるのは、正道です。30年前私が、新居を構えたのもあそこですからなぁ。それが本当です。長男が十分住み慣れたら、次は次男の番ですよ。アハッハハ・・・」

 社長大笑いして、頗る満足げであった。

 社員も、なるほどと首背いて、これも大笑いしてしまった。

 

 ■五分前

 海軍の伝統的な言葉に、『五分前』というのがある。

 「課業始め五分前ッ」

 「総員集合五分前ッ」

と、いう風に、何か始める五分前までには、すべての準備を整えて、応

じ得る姿勢になっていることだ。

 今日の我々の生活にも、この五分前の準備姿勢が緊要である。

 

■かくてこそ

秀吉が山陰山陽を攻めた時、某城主の二木某という者が、内通しようと約束して、その人質に自分の長子を渡した。

 秀吉はそれを信じ、彼の指図に従って攻め入ったが、それは謀計であったため、さんざんに打ち破られ、命かながら逃げ帰った。

その後、秀吉はこの城を攻落したが、謀主二木を捕らえることが出来なかった。賞を懸けて求めたが、行方は知れなかった。

 後年、小田原城落城のとき、彼を捕らえる者があって、秀吉の面前に連れてきた。

 彼は嬲(なぶ)り殺しにでもされることであろうと、覚悟を決めて来たが、まことに意外にも秀吉は、「汝は長子を人質としてまでも主に尽くそうとしたのは、世に稀なる忠臣である。

 今後は、予に対しても斯くあれよ。」

 却って彼を賞し、三千石を与えて臣とした。

 

 ■破戒

 梅痴和尚は浄土宗の僧で、詩佛、五山などと風流の交をなし、徳名一世に高かった。

たまたま寺に土木のことがあって、幕府から役人が、監督にきたが、一役人、和尚に、「今日寺の床下を検したところ、魚の骨が狼藉たる有様で捨てられてある。これは思うに山内に必ず破戒の僧があるためであろう。よろしく詰問してその實を調べ、上に陳述しなければならぬ。」と申し出た。

これを聞くと梅痴、ちょっと驚いたように顔を歪めたが、やがてかんらからと好笑して言った。

 「今の小僧は役に立たぬ。老僧などの若い時は、魚の骨や頭は、残らず喰うてしもうたものじゃがなぁ」

 役人は、暫く呆然としていた。やがて帰って早速、上官にその由を告げると、

 上官もまた微笑しただけで、事は済んでしまった。

それから間もなく梅痴は、一山の衆僧を集めていった。

この頃、床下より魚骨が多く現れ、それを幕吏が詰問しようとしたが、老僧は身を以って汝らを救うた。汝らに良心あらば、悔悟してよかろう、そして再び清戒を犯してはならない。」

その言辞悲痛、涙また下る有様であった。座にあった破戒僧は慟哭して罪を謝し、生涯、不如法の行なからんことを誓ったという。

 

 ■官紀厳粛、吏道刷新

 武将堀左衛門督秀政の話。

 城下の町の辻に、

 「秀政どのあしき仕置條々・・・。」

と、大書した立札を建てたものがある。仕置の事二十三箇条にも及んでいた。

 目付出頭人などが相談して、秀政に見せ、懲らしめの為なれば、きっと詮索あって、法度に行わるべしと申出でた。

 秀政、その札を、つくづくと見ていたが、ふと立って袴をつけ、手を洗い口を漱いで座に還り、その札をとって三度戴き、

 「今誰ありてか、われにかくまで諫言するものあるべき、これは偏に天の与え給ふところなるべし、永くわが家の重實 にせん。」

 美しい袋に入れて函に蔵し、その後 代官たちを集めて、それぞれ仕置を改めた。

 日本的人間の雅量である。

 

■もちいるの道

 酒井備後守利忠、川越の地に大名となった。すると備後村に庄屋があり、代々備後を名乗っている。同じ名なので、改めるように命じたが、庄屋は更に従わず、そのまま三年過ぎた。

その庄屋の納貢、課役、すこぶる忠実であった、その後、利忠が領内を巡視のとき、備後村に行くと、呼び寄せて「上と下と同名は、いかにも礼にそむくぞ、速に改めろ。」

 厳しく云いつけると、

 「私、何の落ち度があって、祖先からの名を改めましょうや。それとも、この村の務が他村におくれをとっているならば格別、さもなくば君御自身こそ、御改名あって宜しかろうと存じます。」

 頑固真剣に、無礼を言い張るのを、利忠は庄屋の顔色を見ると、まさしく忠実一徹の男らしい。

そうか、それならば自身は、この封内の備後、お前は一村の備後、こういうことにしておこう。

 頑固な庄屋、ハッと平伏したまま感激し、その後更に忠実を励んだという。

これを伝え聞いた家康、例の如く莞爾として、

 利忠、わしのとおりにやりおるのう。川越は長くおさまる。45:30

 

 ■法

 乃木学習院長は、同時に軍事参議官でも会った。山田副官が、参議官への所用があって、学習院の院長室に訪ねて行くと、

 「ちょっと待ってくれ。」

 「は。」

 「こちらへ来てくれ。」

 院長室を出て、長い廊下を歩いて、遠い、本館の応接室へ入ると、

 「さあ、聞こう。」

 応接室以外で、来客と会うことを、生徒たちに禁じてあるからだった。乃木院長にとって、自分の副官も客であった。

 

■ 無方法

 小使が、学習院長乃木大将の居室や寝室へ、用をたしに入っていくと、大将は、

 「私のことは私がする。呼ばなければ、来なくともよろしい。」

すべて自分の手で始末してしまう乃木大将だった。ある日、大将が小使室へツカツカと入ってこられると、小使が云った。

 「何か御用でございますか。」

 「ああ、茶が飲みたくてな。」

 「お茶でございますか、それならお呼びくだされば、持ってまいります。院長閣下が小使室などへ、お出向きなるものでございません。」

 日頃のシッペイ返しのつもりで、思い切って云うと。

 「ウン、そうか、参った。私の室へ茶を一つ持ってきてくれ。」

ニコニコしながら、あわてて帰っていかれた。今まで頑固一方の院長閣下だとばかり思っていた小使は、全く心から服してしまった。

 人を心服させるのに、方法はない。

 

 ■行事

どうも云うことをきかない子を、もてあましていた知名の人が、乃木大将に揮毫を乞うて云った。

 「閣下の御教育の方針を、お願いいたします。私の部屋に戴いておくので。」

 「さあ、方針といって。」

しばらく考えていられたが、やがて紙を染めた。

 教人以行不以言(人を教ふるは行を持ってし言をもってせず。)

 以事不以理(事を以ってし理を以ってせず)

 訓示めいた言葉と、理屈ばかりで、子供や下のものを従わせようとしていた。

その知名の人は、心の中で頭を書いた。

 

■カビ

降り続く五月雨を見て、乃木大将は狂歌を作った。

さみだれにものみな腐れはてやせん

鄙(ひな)も都もカビの世の中

これに註して、『黴、華美、音近し』と書き添えた色紙が今に残っている。

いわゆる上流家庭の華美な生活を、乃木大将は、極端に嫌って、やはり狂歌を作った。

ペンキぬり門内さくら花だらけ

亭主ハイカラ嬶(かかあ)おきやんなり

土曜から日曜にかけて、那須野の山荘へ行き、爐をかこんで近所の農夫たちと話すのが、大将のむしろ真面目だった。中に『閣下』というものがいると、手を振って

「オイ、それはやめてくれ、わしは百姓じゃよ。」

 畑で野菜類をつくるのが、大将は殊(こと)に上手だった。稗飯を常食にし、鰯の目ざしがご馳走だった。

 銀座あたりには、まだ奇怪な化物がいるといい、日本に国籍があって、性格は外人のそれであるというのを、将軍は殊(こと)に嫌った。

 参考文献:「日本的人間」山中峯太郎

2018/12/05 18:00に公開

 

意思


-動静一如(GHQ焚書図書開封 第179回)

2022-07-27 03:19:47 | 近現代史

(GHQ焚書図書開封 第179回)

-動静一如

 鳥が飛躍しようとするとき、まず翼をかさねて、しばらく動かない。これが不動の姿勢である。号令一下、いかなる行動にも全力で出得るのが、不動の姿勢であって、凝り固まるのは、不動ではない。と、軍隊では教える。動静一如、この心境こそ不動心であろう。二宮尊徳は言う。不動尊は動かざれば尊しと読む。予が今日に至ったのは、不動心の堅固一つにある。

 不動心の堅固一つで足もとから、着々と動いて行ったところに、尊徳の本領が察せられる。

 

 一世一代

 茶道は、動静一如の心境を体得させるという。財界の益田孝は、茶席を開いて客を招くたびに、「今日こそは、私の一世一代のお茶、これが私の最後のお茶であろう。いつもそう云うので、客が、また一世一代でございますか。」ことごとに一世一代の気力をもってあたる。今日を最後と観念する。このほかに、真剣な生活充実の道はないと思う。

 

 決して死なぬ

気力で生きる強さを、福沢諭吉がk、やはり体験の上から云う。気力の強い人間は、体が完全なのを維持して、俗にいう『剛情に長命』する実例がある。とにかく自分は、この世にまだ用のある身である。今死んでは困る故決して死なぬと一心決定して、平気剛情に身構えすることが、最大の療法である。たとえ病が襲ってきても、少しも恐れたりするにたりない。随って襲ってくれば、追い払うだけのものである。畢竟、現代の医者は、単に有形の身体を料理するばかりで、なほまだ、精神力に及んでいない。」石川啄木は歌って云う。こころよく我にはたらく仕事あれそれを仕遂げて死なむと思う。働く仕事は山ほどある。我に働く仕事あり、それを仕遂げて生きんと思う決意で生きる。平出海軍大佐はいう。決して死ぬな。」適切な言である。

 

 肉體克服

 乃木大将の肉体は、殆ど不具に近いほど、故障だらけであった。左足が、西南戦役の負傷によって、生涯不自由だった。左の眼が、瞳孔内の角膜白斑のため視力殆どなく、僅かに明暗を識別し得る程度だった。残る右眼は、強度の遠視だった。が、その不自由なのを、静子夫人さへ数十年の長い間、気がつかなかった。大将がそれを云わず、不自由なのを黙って克服していたからである。その上持病の痔が治らず、ひどい脱肛で烈しく出血する。乗馬して鞍を赤く染めながら、そのまま疾駆させた。リューマチスも持病だった。冬になると肩と肘の関節が自由を失う。腕と足の銃創も疼いた。歯は、日露戦争以前から、総入歯だった。」旅順要塞の総攻撃前に、海軍陸戦銃砲隊を初めて訪問したとき、廓から出てくると、ひどく顔色が悪い。河西副官が見てとって、「どうかなさいましたか。」「いや、血が少し・・・。」大将は何気なく云われたが、愕然とした副官は重ねて尋ねた  「痔の方の出血をなさったのですか。」「いや、血便だ。」「それはいけません、すぐかえりましょう。」「なに、何でもない。出かけよう。」乗馬して前線に出ると、高地から低地へ、また高地へ、およそ六里にわたる攻撃配備を、ことごとく視察し続けた。司令部へ帰ってきたが、それきり黙っている乃木司令官を、軍医が診察してみると、赤痢だった。「閣下、ご静養を願います。」「そうかな、まあいいよ。」『そうかな、まあいいよ』と気力で押し切って静養もせず、十日ほどすると治って、総攻撃開始の日には、前線へ出て自ら指揮した。

 

 気力

 乃木大将、故障だらけの身体に、学習院の院長を拝命、寄宿舎に起居して、少年と生活を共にした。片瀬の遊泳に行き、中耳炎にかかり、赤十字社病院で大手術をしたが、鼓膜が肥厚し、絶えず烈しい耳鳴りに悩みながら、これも克服していた。

 「暑い、寒いは気のものだよ。」自分の居室にスチームを通さず、暖炉もたかず、安物の火鉢に小さな炭火をいれさせるきりだ。中耳炎の大手術後であり、殊に厳寒ではと、御用掛の小笠原長生子爵が全校を代表して、「暖炉をお炊きください。これだけをお願いいたします。」熱誠をこめて諌めると、「ああわかった」と、その日だけ暖炉に日を入れさせたきりだった。

 数日後、小笠原子爵が行ってみると、乃木大将、「やあ。」あわてて立ち上がると、暖炉の

前へ急いで行き、しきりに炭を投げこみながら大声で云った。 

 「今ちょうど、その、火が消えてのう。」火のない暖炉へ石炭を入れても、燃えはしまい。大将のこの気力は、厳父より幼時鍛錬されて育った、肚の気力である。

 

 群童の魁

 吉田松陰の『幽実文稿』の初めに、塾生岡田耕作に与えた文が載っている

耕作は当時、十歳の少年であった。

 正月の三が日は、遊んで暮らすものとされているが、耕作は、正月の二日の日に

塾へ出かけていった。松陰は非常に喜んで、

 正月だというので、みな年始の挨拶に来る者はあるが、授業を願いますというて来たのはお前一人だ。わが塾の第一義は、今迄の習慣を一洗して、大いに非常時に役立つような人物をつくることが目的であるによって、大晦日も元旦もあるものではない。第一、今はそんなことをいって、業を休む時ではない。今日お前が来たのは、感心だ。群童の魁だ。群童に魁をする者は、やがて天下の魁をするものである。松陰は、正月の二日の日に。孟子の講義をして聴かせた。

 

 唯一心

 師走の三十一日、明日は元旦だという夕方に、学友の菅得山が、林羅山の家へ遊びに来た。話のついでに、私は通覧綱目 をまだ読んでいないが、貴公は読んだかな。」「ああ、ことごとく読んだ。」「そうか、それならば、どうか年があけて明春から講義してくれんかな。」「なに、聞きたいなら、今から始めよう。」林羅山はそう云って、直ぐに立ち上がって、その書物を持ち出してきた。

 羅山、師走の夕方から、諄々と講義を始めた。そのことのみに生きている。一心の生活者は、脚下から着々と道を開いて行く。学ぶべきかな。

 

 一日善哉

ある年の元旦のこと、服部南郭が、その師荻生徂徠の許へ年賀に行った。ところが、徂徠は机にもたれて一心に孫子を読んでいた。髪も乱れている。新春も知らぬようである。徂徠は彼を見ると、「やあ来たな。どうだ近頃は何か読んだか。そうか、ところで、孫子を今読んでいるが、孫子とは・・・・」

と、論じ出した。南郭は、この日新春の賀詞を述べる機会がなく、ともに孫子を語って、深更に、師の許を辞したという。

 

 一日暮し

大阪の名医、北山寿安がいう。「一日暮らしということ覚悟せしより、覚悟甚だ健やかにして、又養いに術を得たり如何となれば、一日は一月のはじめ、千歳万歳のはじめなれば、一日よく養うことを得たれば、生涯を養うも難きにあらず。

 一日を仕上げていけという。明日という日があると考えたら。今日一日の充実は零にしてしまふことがある。一日に最善を尽くして行け。頭山満がいう。何事も大風が吹いてから、両手で防ぐようなことをしても、もう間に合うものでない。平生から肚を養うておかねばならぬ。大塩平八郎が云うように『一年を百年と思う意気込みで、心に磨きをかけておかねばならぬ。』一年を百年、これを現実の上に体得すべく、一日を百日に、一時間を百時間にするほど、刻々に充実しなければならぬ。一日を仕上げる法である。

 

 日常本心

 徳川三代将軍家光、朝鮮から献上してきた猛虎を、鉄の檻に飼っていた。剣道指南番の柳生但馬守宗矩が、この虎の前へ行くと、鉄扇をもって身構え、気合と眼光で射すくめた。ところが、沢庵禅師は、手に唾をつけて虎になめさせ、頭を撫ぜてやり、飼い犬のように懐かせてしまった。これを見た但馬守、「禅師にはかなわぬ。」

 剣道は悟道によって極意に達すべきを、初めて気がついたと云う、講義めいた伝説。

 史実には、沢庵禅師が但馬守のために、剣道の極意を示した手記『不動智神妙録』が遺されている。中の一節にいう。

 何事もなさんと思うことを、ずんと思い切ってするは本心なり。こうしようか、せまじきかと、二途にわたるは血気なり。二途にわたりて分別きまらざることをすれば、必ず悪しし、これ血気に惑わざるるなり。この事をなさんと思わば一途にしたがうべし。二途にわたるほどならば、なすべからず。初め一気はみな本心なり。二つにわたるは血気なり。本心はみなよし。血気は悪しし。何事も怖じるな。怖じれば仕損なうぞ。怖づるは平生ののこと、場へ出ては怖づるな。溝をば、ずんと飛べ。危なしと思えば陥るぞ。」

 肚からの決意は『何事にも怖じない』本心の信念から生まれる。『分別きまらざる』血気の意図は『陥るぞ』である。

 日常の 生活に処する道も、本心信念で一貫したいと思う。

 

 身に聞く

下野の佐野の城主、天徳寺了伯が、琵琶法師を招いて、家臣と共に聞いた。曲は

平家物語のうち、佐々木高綱の宇治川先陣、那須宗高の扇の的、聞いているうちに了伯は、潜然と涙にむせんで、しきりに懐紙を顔にあてていた。

 後日、家臣に

先日の琵琶は、いかがであったか。」

 所感をきいてみると、

ハッ、壮快なる先陣と、扇の的へ射当てました功名、二曲とも興味この上もなく、聞き取れました。君にはお泣き遊ばしましたが、一同、今もって不思議に存じております。」

 了伯、興ざめした面持ちで云った。「そうか。わしは、高綱が宇治川に先陣し得なかったら、宗高が扇を射損じたら、共に自分を覚悟しておったに違いない。その心を思うと、涙がこぼれた。お前たちは、いかな話でも、身をもってきくことをしらぬのじゃな。」まして命令、用談、身をもって本心で聞くが要諦である。

 

 禅の妙味

 武田黙雷禅師が云う。

 禅をやって、落着くと言うことは、くそおちつきに沈着して、雷が落ちてもびくともせぬようになるのじゃ、と思っている者もあるが、そうではない。雷が

天から、ドンドンガチャンガチャンやるにつれて、こちらでもドンドンガチャンガチャン。地震がグラグラと大地をゆすれば、こちらも、グラグラするところに、禅の妙味がある。座禅をしたから迷わんの、うろたえんというのは、」そりゃ、まだいかん。」

 

 気概

 儒者太宰春台が、小石川に住んでいた頃、庭前の梅が、道行く人の心をひいた。折りしも某大名、通り合わせてこれを見、是非に一枝をと所望した。春台、これを断ると、大名、大名が一度所望した以上は、ならぬといわれて手を引くわけには行かぬ。大名には大名の法がある。是非とも一枝を・・・・。」これを聞くと春台、立ち上がり山刀を携えて、「御大名に御大名の御作法があらば、儒者に儒者の作法あり。権貴にのみ屈服しない作法を御覧に入れよう。」山刀を揮って、梅樹を伐倒した。大名の一行、その気概に驚き、黙して立ち去った。

 

 不関

 讃岐の太兵衛の孝行が、代官の耳に入った。雪の夜、太兵衛の家のそとへ、そっと様子を見に行った代官、戸の隙間からのぞいてみると、老母が炉のそばにうづくまり、太兵衛が寝床にもぐっていた。「これがこうこうもののすることか。」憤然とした代官は、そのまま立ち去ろうとした。が、待てしばしと思い返し、佇んでいると、太兵衛は寝床から這い出してきて、老母のそばへ手をつき、「お母さん、お床があたたまりましたから、どうぞ、お休みください。これを見聞きした代官、さてはと感嘆して、帰り、翌朝、太兵衛を呼び出して、莫大な褒美と、特に『孝野』という姓までも与えた。その孝野

 家は、現在も存続して栄えている。雪の中で、代官に立ち見されたのが、太兵衛の好運であったのか。その前に憤然と代官が立ち去ったとしても、太兵衛の孝行には変わろう筈がない。その運、不運には関らないことだ褒美や孝野の姓はつけたりである。意とするに値しないものが、運であろう。『得意冷然、失意泰然』ともいう。

 

 形式

 昔、江州の孝行者が、自分は世間から孝行だと誉められるが、まだ十分でない。信州に大の孝行者があるというから、往って修行しようと思い、わざわざ出かけて行った。その家を訪ねて、暫く待っていると、倅が柴を背負って帰ってきた。家へ入るや否や、老母は出て柴を降ろしてやる。倅は平気で老母に柴の始末の手伝いをさせている。その態度を見て、江州の者はこれは変だと思っていたが、続いて老母は倅の草履の縄を解いてやる。おまけに足まで洗ってやる。この様子を見て、「親孝行などとはとんでもないことだ。世間の評判など当てにならぬ」と憤慨した。すると、その男が、今度は疲れたといって、ゴロリと横になった。老母は足をもんでやった。この態度をみた江州者は、もはやがまんできず。自分は孝行の修行にきたのである。ところが今までの様子を見ていると。孝行どころが、むしろ親不孝である。実にとんでもない 奴だ。」真っ赤になって怒鳴った。すると。倅は言った。自分は孝行とはどんなものか知らないが、私の母は、草履の縄を解いたり、足を揉んでくれるのをよろこんでいるのだ。もしそれを断るとたいそう機嫌が悪い。わしは何でも母の言うとおりになっているのだ。」江州の孝行者は、ハタと膝を打って、なるほどわかった。自分のこれまでの孝行は、いかにも形式であった。いたく感じたという。

 

 参考文献:「日本的人間」山中峯太郎

2018/11/07 に公開

 


-GHQ日本人洗脳工作の原文発掘その2-(GHQ焚書図書開封第178回)

2022-07-22 07:01:13 | 近現代史

GHQ焚書図書開封第178回

-GHQ日本人洗脳工作の原文発掘その2-

連合軍側の悪行には一切触れさせず、日本のアジアでの戦争だけを犯罪と言い立て、日本は悪辣な侵略国家だったとの贖罪意識を日本人に刷り込もうとした東京裁判。日本の政、財、官、司法、言論・文学、教育の指導者がそれに追随した。アメリカ、フランスは国旗を掲揚しても良いが、日本は国旗を掲揚してはいけないという日教組。国歌「君が代」が歌えなくなった若者。英語、フランス語、スペイン語のサンフランス講和条約原文11条では、「連合国戦争犯罪法廷の判決を受諾」となっているのを「連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾」と故意に訳した外務省。この解釈を巡っては、小和田恒氏、土井たか子氏が裁判と訳した考えを支持している。朝日新聞がGHQの手先であった原文証拠資料が露呈。綺麗事を言って自国の行為を正当化するアメリカにとって、原爆投下の罪意識と東条英機の善事(杉原千畝のユダヤ人救出支援)は、日本のやったことを全面否定しない限り正当化することが困難だった。今もなお、日本の核による報復攻撃を恐れているアメリカ。

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1.SCAP(連合国軍最高司令官もしくは総司令部)に対する批判
2.極東国際軍事裁判批判
3.GHQが日本国憲法を起草したことの言及と成立での役割の批判《修正:2018年4月26日、江藤氏原訳「GHQが日本国憲法を起草したことに対する批判」を英文原文に従い修正。修正根拠は記載のアメリカ国立公文書館の典拠文書の記述に拠る。(細谷清)》
4.検閲制度への言及
5.アメリカ合衆国への批判
6.ロシア(ソ連邦)への批判
7.英国への批判
8.朝鮮人への批判
9.中国への批判
10.その他の連合国への批判
11.連合国一般への批判(国を特定しなくとも)
12.満州における日本人取り扱いについての批判
13.連合国の戦前の政策に対する批判
14.第三次世界大戦への言及
15.冷戦に関する言及
16.戦争擁護の宣伝
17.神国日本の宣伝
18.軍国主義の宣伝
19.ナショナリズムの宣伝
20.大東亜共栄圏の宣伝
21.その他の宣伝
22.戦争犯罪人の正当化および擁護
23.占領軍兵士と日本女性との交渉
24.闇市の状況
25.占領軍軍隊に対する批判
26.飢餓の誇張
27.暴力と不穏の行動の煽動
28.虚偽の報道
29.GHQまたは地方軍政部に対する不適切な言及
30.解禁されていない報道の公表

関連文献:「日本人を狂わせた洗脳工作 いまなお続く占領軍の心理作戦」関野道夫、「閉ざされた言語空間」江藤淳

2015/05/20 22:00に公開

 


-GHQ日本洗脳工作の原文発掘その1-(GHQ焚書図書開封第177回)

2022-07-21 07:20:41 | 近現代史

GHQ焚書図書開封第177回

-GHQ日本洗脳工作の原文発掘その1-

WGIPとは日本人に戦争犯罪者意識を刷り込む計画。日本を二度と白人に戦争を仕掛けない国とするのが目的。そのために、法体系と日本精神の覆滅を図る。2世代を経てからその効果が表れてきて現在に至っている。WGIPの原文が発見され、作り話でないことが証明された。良いことをするのはアメリカ、悪いことをするのは日本というマインドコントロールに現在もなお、日本人はかかっている。「アメリカがやっていることは、日本人のためになる・・・。」で日本人を説得するのはアメリカの対日外交の常套手段。そして、それに何の疑いを持たず受けて入れてしまう戦後日本人の姿勢。植民地解放の願い(戦争目的)をこめて日本側がつけた名称「大東亜戦争」の使用禁止、アメリカ側の作成した「太平洋戦争史」を対米戦開始の12月8日から10回にわたり各新聞紙に掲載。GHQのメディアに対する具体的な施策は東京裁判前、裁判中、裁判後に亘って、戦後の厭戦感情、軍人家族に対する怨嗟の声を必要以上に大きく取り上げ、NHK放送などを利用してCIE(民間情報教育局)シナリオどおり着実に実行された。新しい権力に媚びる多くの知識人がこれに協力した。日本人が日本国を誇りに思うのでなく、日本人が日本国を貶める習慣が根付いた(これは、日本人のナイーブな国民性に合致し、占領政策として大成功した、以後、日本以外のアメリカの占領国で同じことをやろうとしたが成功していない。)。ドイツ人がドイツ国でなく、ナチス党に戦争責任を転嫁してドイツ国の誇りを守ったのとは対称的である。

関連文献:「日本人を狂わせた洗脳工作 いまなお続く占領軍の心理作戦」関野道夫、「閉ざされた言語空間」江藤淳

2015/05/07 15:00に公開


-和辻哲郎「アメリカの国民性」(三)-(GHQ焚書図書開封第176回)

2022-07-19 04:45:23 | 近現代史

GHQ焚書図書開封第176回

-和辻哲郎「アメリカの国民性」(三)-

このフランクリンの態度は、土人殺戮に於けるホッブス的原理の活用と同一の事態を示している。アングロ・サクソンは土人に所有権の概念なく、従って土地譲渡の契約が彼らに無意義であることを十分承知していたのである。しかも彼らはこの契約を結び、そうして契約違反を待って殺戮を行なった。この手続きが彼らには必要なのである。この種の心情はフランクリンにも根強く存している。

 彼は17,8才のころ菜食主義を実行したことがあるが、魚のフライを揚げる匂いをかいでしばしば煩悶した。そこで、鱈の胃袋から小さい魚の出てきたことを思い出し、魚同士が食い合っているのなら、自分が魚を食って悪いわけはないという理屈をつけ、腹一杯鱈を食った。『理性ある動物たることはまことに好都合なものである』したいと思うことはどんなことにでも理由を見出し或いは作ることが出来る』-この心情は彼の政治家としての成功をも助けている。戦争絶対反対のクェーカー教徒が、火薬費の支出に反対してその代わりに『パン、粉、小麦、または他の穀類』の費用を可決したとき、知事は平気で火薬を買い、其の儘ですんだ。このやり方に興味を覚えたフランクリンは、大砲を買う金を要求するときにfire engine(消防ポンプ)買い入れ費を要求すればよいと云った。大砲はfire engine(火器)に違いないからクェーカー教徒も反対し得ないというのである。その後土人との戦争で司令官に任命された時、彼は隊付の牧師が祈祷や説教に兵士等の出ないことをこぼした。その兵士等がラム酒の支給の際には必ず出席しているのを知っているこの司令官は、牧師に忠告した。『祈祷のあとで酒を分けることにしては如何です。』この妙案で兵士等は皆祈祷に出席するようになった。フランクリンはそれに付け加えて云う、『軍律による処罰よりも、かかる方法がよい。』11:30

 我々はここに原理によって行動するというアングロ・サクソンの態度の真相を見出し得ると思う。アメリカの独立宣言はアメリカの国家の原理を表現したものとであるが、その独立宣言もまた右の視点からのみ十分に理解せられるであろう。

 宣言は、『すべての人は平等に作られている』 (All men created equal)という有名な句をもって始まる。そうしてこの句は地球上のあらゆる人に平等の権利を認めるかの如き印象を与えている。ベルグソンの如き哲学者すら、この句をそういう風に解釈する。彼によれば西洋の古代でも、また東洋に於いても、おのが民族以外の人を差別扱いにした。然るに基督教の四海同胞主義は初めて人権の平等と人格の神聖さを確立した。そうしてそれを十分に実現したのがアメリカのピュリタンの人権宣言である、と。然るにアメリカのピュリタンは前述のごとくアメリカの土人に所を得しめようとは決してしなかったのである。またまた彼らと共に人権の平等を宣言した南部諸州のアングロ・サクソンは、アフリカから攻略してきた多数のニグロ奴隷の上に立っていたのである。のみならずその後のアメリカの国是は、東洋の諸民族を差別扱いすることを特徴としている。即ち前述の如き意味の人権の平等をアメリカ人は豪も認めてはいないのである。実際またこの独立宣言は、

 本国のアングロ・サクソン人に対して植民地のアングロ・サクソン人が一切の特権を拒否し権利の平等を主張したに過ぎなかった。

 『あらゆる人』と云われているのは、アングロ・サクソン民族内部のあらゆる人に過ぎなかった。しかもそれを前述の如き意味に解せられ得るような言葉で以って表現していたのである。従って彼らは人権の平等をふり廻しながら平然として土人を殺戮し、依然としてニグロ奴隷を鞭打ち得たのである。23:00

がアメリカ人と雖もこの矛盾に気づかぬ筈はない。そこに都合の弁護として伝えているのがホッブスの人権平等説である。この説もまた『あらゆる人は平等につくられている』という句を以って始まり、そうしてその『あらゆる』は地球上のあらゆる人を意味することが出来る。しかしこの人権の平等は戦争状態と同義であって、平等の慈悲を意味するのではない。この立場に立てば、自然法に基づき正義の名に於いて土人の殺戮、奴隷の使用をなし得るのである。そのための手段は「契約」であり、またそれに基く『法律』であった。

ベルナール・ファィは法律に対する嗜好をアメリカ人の重要な特性の一つに数えている。が同時にその法律が、父祖伝来の行為の規範なのではなく、厳しい自然との闘争の中から新しく作り出されたもの、従って個人の自由な活動を出来るだけ阻害しないものであることをも指摘している。各人の物質的生活の便宜のために法律が作られるという考えがここでは実現されたのである。が我々が特に指摘したいのは国内法の特質よりもむしろ他の民族に対する契約や法律の使い方である。ラム酒の効力を用いて土人と契約を結んだあの態度は、この後のアメリカの外交政策に一貫して現れて云ってよいであろう。39:26

 我々は90年前にペリーが江戸を大砲で威嚇しつつ和親条約の締結を迫ったことを忘れてはならぬ。もしそれを拒めば、平和の提議に応ぜざるものとして、手段

を問わざる攻撃を受けたであろう。大砲に抵抗するだけの国防を有せなかった当時の日本は、人々の憤激にも拘わらず、和議の提議に応ぜざるを得なかった。もしその後攘夷を実行したならば、契約を守らないという不正の立場に追い込まれる筈であった。この手口は更にワシントン条約に於いて繰り返されている。当時の名目は世界の平和のための軍備縮小である。即ち依然として平和の提議である。

しかし、実質は日本の軍備を戦い得ざる程度に制限することであった。しかも、それは米英の重工業の力の威圧の下に提議された。もし日本が拒めば、平和の提議に応ぜざるものとして、米英の軍備拡張を正当化することになる。当時の日本は重工業の力がなお不十分であったためか、或いは政治家の短見の故か、この仮面をつけた挑戦に応じ得なかった。この弱味につけ込んで更に支那問題に関する条約を押しつけられた。欧州大戦争日本が支那と結んだ条約は、武力の威嚇の下に強制されたという理由で無効とされた。アメリカが日本と結んだ最初の条約は大砲の威嚇の下に強制されたものであるが、それは知らぬ顔で通している。

とにかく平和の名の下に不利な条約を押しつけ有利な条約を抹殺したのである。そこでアメリカは、満州事変以後の日本を契約違犯で責め立てた。正義の名によって日本を閉めつけ、日本をして自存自衛のために立たざるを得ざらしめた。この平和や正義の名目のホッブス的な性格を理解していないと。彼らの宣伝に引っかかる恐れがある。欧州大戦争以来、日本ではこの点に少なからぬ油断があったと思う。

参考文献:「日本の臣道 アメリカの国民性」和辻哲郎、「天皇と原爆」西尾幹二

2018/10/24 18:00に公開


-「アメリカの国民性」(二)-(GHQ焚書図書開封第175回)

2022-07-17 09:30:42 | 近現代史

GHQ焚書図書開封第175回

-「アメリカの国民性」(二)-

目次

 日本の臣道

アメリカの国民性

 1. アメリカ国民性の基調としてのアングロ・サクソン的性格

 2. アメリカへの移住

 3. アメリカに於けるホッブス的性格の展開

 4. アメリカに於けるベーコン的性格の展開

 5. 開拓者的性格

 

 『あらゆる人と人との間の戦争』がある。これが自然状態である。ここではいかなる行いも自然の権利に基づいてなされるのであるから不正ということは存しない。戦争状態における徳は力と詐欺とである。

しかしこのような自然状態は、自己の生命を保持するには最も都合が悪い。人は常に生命の危険にさらされ不安を感じていなくてはならぬ。従って人は理性によって、この悲惨な性格からの脱却、生命の安全保障を要求する。そこに自然法(lex naturalis)が見出される。即ち生命に害ある行為を禁ずる一般的法則である。ここに初めて人の行為に対する拘束、即ち義務が現れる。

・ ・・・・

自然法の第二則は、右の平和の要求が当然含意すべき内容を展開する。人が自然の権利を行使しあらゆる物に対して自由に振舞うならば、当然人々は戦争状態に陥り、惨苦不安を甞めなければならぬ。従って平和を要求する者は自然の権利を行使するわけに行かない。『人が他の人々と共に、平和と自己防衛とを欲するならば、彼はあらゆる物への権利の放棄を必要と認め、己に対して他者に許容すると同程度の自由を他者に対して己が保持することに満足しなくてはならぬ。』・・・・・・

 この自然法に基づいて契約が可能になる。人々は自然の権利を放棄した上で、限定された権利を互いに認め合うのである。ここに初めて人々は戦争状態を脱し、人間社会の成立する緒が開かれる。

 自然法の第三則はこの契約の保障である。『人々は結ばれた契約を守らなくてはならぬ。』これが正義の根拠である。勿論契約は、都合の悪い時に破ることも出来る。しかし破れば味方を失い戦争に負ける。即ち契約は守らなくては損である。これがホッブスにとっては理性の法則たる所以なのである。

ホッブスは・・・なほその他多くの法則を数へるが、それらを総括して『己の欲するところを人に施せ』と云い得るとしている。これは第二則の後半が言い表わしているところで、同時に契約の基礎をなすものである。従ってホッブスの自然法は契約を中軸問題としていると言って良い。近代における自然状態の説及び契約社会説はここに始まり、この後ヨーロッパの思想界を支配した。

 3. アメリカに於けるホッブス的性格の展開

  前に言及したスペイン人のペルー・メキシコ等の征服は、基督の名において行はれた。たとひ中部アメリカの土人が高度に発達した人倫的組織や壮麗な宗教的儀礼などを作り出していたとしても、それらは皆基督の福音を接受する以前のものである。

  それは内容的には基督の福音に合致するものと云えるであろうが、しかしそういう立派なものを福音の伝わる以前に実現しているとすれば、そこに何か警戒すべきものがある。恐らくそれは悪魔の策謀であろう。

  悪魔は福音の伝はるのを邪魔するために、先手を打って、予め同じような内容の組織や制度を教え込んでいた置いたのである。従ってもし土人が即座に基督教への回収を背んじない

 ならば、これを殺戮することは悪魔の弟子を殺戮することに他ならぬ。悪魔の所業を破壊して福音を広めるためには、どんな手段を用いても残酷ということはない。これが彼らの土人殺戮の原理であった。11:34

しかしアメリカに植民したアングロ・サクソンの基督教に対する態度はこれとは異なっていた。彼らは少数の例外を除いてローマの教権に背いた新教徒である。

 特にピューリタンやクェーカーなどは新教の徹底的保持のゆえに新しい土地に出てきたのである。彼らにとっては信仰のことは個人の心情の問題であって、教会のために信者を殖やすことではない。況んや基督教のために殺戮を行ふというごときことは以ての外である。クェーカーの如きは戦争絶対反対を固い信条としていた。

しかし開拓を遂行するためには土人と戦いその抵抗を絶滅しなくてはならぬ。特に北アメリカの土人はペルーやメキシコの土人の如き文化を持たず、開拓事業のために労力を提供する如きものではなかった。だからアングロ・サクソンは初めから『死んだインディアンのほかに善いインディアンはない』と考えていたのである。

 土人は殺すほかはない。が彼らは何の名において土人殺戮を行ったのであろうか。

ここに有力な原理を提供したのはホッブス的な自然状態の人間観である。

 人は万物に対して自然の権利を持っている。土人がアメリカの森林で狩する権利を持っているように、移住したピューリタンもこの森林を拓いて耕地となす権利を持ている。ここには正不正の問題はない。その代わり同じ森林について権利を主張して合ふピューリタンと土人とは当然戦争を行わねばならぬ。戦争状態において弱いものが殺されるのは当然の理であって正不正の問題ではない。が土人相手の戦争と雖も決して楽なものではなく、初期の移民はしばしば醜い眼に逢った。

そこでピューリタンたちが適用したのは自然法である。彼らは土人に平和を提議した。平和条約が

成立すれば土人を殺さないですむ。がもし平和の提議に応じなければ、手段を選ばず土人を殺戮する。自然法に従わないような人間は動物と同じように射殺してよいのである、

 殺戮が行なわれたとしても、アングロ・サクソン一抹も良心のとがめを感じなかったのである。

ピューリタンたちに最も大きい成功をもたらしたのは平和条約や和親協約による領土の拡大であった。

ベルーナール・ファイ(本田喜代治訳「アメリカ文明の批判」)の叙述によると、彼らは広い原始林の中の空き地の土人の村で土人たちと会商する。夜、焚火を囲んで談判しながら、彼らは携えてきた大きい酒樽を開いて土人たちに振舞う。土人はだんだん酔って上機嫌にくだを巻き始める。イギリス人は辛抱強く彼らの相手になり、辛抱強く彼らに酒をついでやる。やがて潮時を見て一枚の紙片を差し出し、土人の酋長に署名を求める。

 酋長たちは意味も解らず、酔いにふるえた手で署名する。そこでイギリス人は、持ってきた酒樽全部を抜いて、車座になっている土人たちに飲ませ、自分たちは帰っていく。土人たちは焚火の光の中で踊り狂っている。契約が成立し、彼らはその森林を譲渡したのである。その代償としてウィスキーとラム酒と小銃と火薬と斧とパイプとをもらった。そうしてそれを非常に喜んだ。

しかし所有権の知識のない彼らは譲渡がどんなことであるかを実は知らなかったのである。土人たちはただ自分らと同じくこの森で狩りする権利をイギリス人に与えたと考えていた。然るにイギリス人は契約に基づいてこの土地の合法的な地主となった。後に土人たちが狩りに来て見ると、森林は切り払われて農園が出来ている。彼らは怒って家を焼き幾人かのイギリス人を殺す。すると彼らは契約を守らない怪しからぬ者として徹底的にやっつけられる。イギリス人は自然法の第三則に基づいて、正義の名の下に殺戮を行なうことが出来たのである。がもし土人たちが殲滅を避けたいと思うならば、また少しの火薬と沢山のラム酒とをもらって、新しい紙片に署名すればよかった。

これが、平和条約や和親条約による領土拡大の実相であった。彼らは火薬とラム酒と悪徳と伝染病とで以って土人を殺戮し続けたのであるが、しかし少しでも不正なことは行なわなかったという形になっている。

 自然状態においては正不正はなく、契約関係に入って後は正義を犯したのはいつも土人だったからである。かくして彼らは正義の名の下に土人を駆逐し、殺戮し、奥へ奥へと新大陸を開拓して行った。これは基督教の名の下に土人を殺戮した代わりに改宗した土人と融合し始めたスペイン人よりも、遥かに冷酷、無慈悲で、また悪辣であった。が彼らはそれを堅実として誇ったのである。アメリカ大陸でアングロ・サクソン国のみが強大な国家となった所以はこの堅実性に存すると云われるが、それこそまさにホッブス的性格に他ならない。22:59

  平和を仮装せる土人との戦いは開拓事業と並行してこの後も絶え間なく続けられ、18世紀中頃のベンジャミン・フランクリンの時代にも盛んに行なわれている。

フランクリン自身土人との折衝に当たったこともある。さすがに彼は土人を単純に殺戮してよい動物とは考えていない。彼が北アメリカ土人について書いた短文によると野蛮人(Savage)という一般の考え方を訂正しようとさえしている。我々は我々の礼儀作法が完全なものだと思っている。だからそれと異なった礼儀作法をもった土人を野蛮人と呼ぶ。しかし土人もまた彼らの礼儀作法を完全なものと考えているのである。公平に見れば礼儀作法のないほど粗野な民族もなく、また粗野の跡を残さないほど礼儀正しい民族もない。

 土人の社会には服従を強制するような権力も牢獄も官吏もないが、しかし男は若いときには狩人にして戦士であり、老年には評議員となって弁舌で人を動かす。女は衣食と育児の世話をし、公の議事の記憶役をつとめる。ちゃんと秩序は立っている。また欲望が少なく閑暇が多いから、会話で改善につとめることが出来る。従って彼らから見れば我々の忙しい生活の仕方は奴隷的で卑しいのである。我々の尊重する学問も彼らには無駄なものである。

  ある協約のあとでアメリカ人側から土人の青年の教育を引き受けようと申出たことがあるが、土人はこの申し出を丁重に取扱って、返事を翌日まで延ばした後に、極めて慇懃に次のように答えた。『ご好意は深く感謝するが、教育についての考えがお互いに違うのは止むを得ない。かってカレヂで教育を受けた土人の子が、卒業して帰ってくると、狩人にも戦士にも評議員にも向かなくなっていた。しかしただお断りするのも失礼であるから、代わりに我々のほうからあなた方の子弟の教育を引受ける提議をしたい。』これが彼らの見識なのである。

それほどであるから彼らはその礼儀作法が白人に劣るとは決して考えていない。そうしてそれには尤もな点もあるのである。会話や会議の際の礼儀はその最も顕著なものであろう。弁士が語り始めると聴衆は深い沈黙を守る。語り終わってもなお5,6分は修正の余裕を与える。他を遮って口を出すのは日常の会話の際でさえも非常な無作法とされている。

これをイギリスの議会の騒擾やパリの交際社会の話の奪い合いに比べると非常な相違である。尤もこの礼儀は極端に発達して、話者の面前ではその意見に反対せぬというまでになっている。これでは争論は防げるにしても聞き手の肝はわからない。33:30

  土人への伝道師の一番の苦手はこの礼儀である。あるとき瑞典(スェーデン)の牧師が土人の酋長を集めて説教した。アダム・イブの堕罪から始めて基督の受難まで物語った。

すると土人の弁者が立って感謝の弁を述べた。『あなたのお話は非常によい。林檎を喰べたのは悪かった。林檎酒にした方がよかった。こんなに遠方まで聞いてあなた方の言い伝えを話して下すった好意は感謝に堪えない。ついてはお礼のしるしに我々の方の言い伝えをお話したい』そこで酋長は唐もろこしと隠元豆の起源説を語った。牧師は不愉快になって、『私の話したのは神聖な真理だ。しかし君のは作り話に過ぎない。』土人は怒って答えた。『どうもあなたは礼儀作法を教わらなかったらしい。礼儀を心得た我々はあなたの話を悉く本当だと思った。何故あなた方は我々のを本当にしないのですか。』 39:00

  フランクリンはなおもう一つ重要な相違として土人の主徳の一たる客人優遇の風習をあげている。旅する土人は案内なしに他の村に入ることを決してしない。村に近づくと立ち留まって大声で案内を乞う。村からは 通例二人の老人が出てきて村の中へ案内し、客人のための家へ連れて行く。そうして村人たちに客のきたことをふれて歩く。人々が客人の家へ食物を届ける。客がゆっくりと食事をすませた頃に、煙草が出され、会話が始まる、あなたは誰であるか、何処へ行くのか、などの問いはここで初めて発せられるのである。そうしておしまいに、道案内その他必要なことがあればお役に立とうと申出る。こういう接待に対して土人は何らの代償をも要求しない。これは白人の客に対しても同様である。

 然るに土人が毛皮を売りに白人の町へ出て、腹がへって食事をすると、『お金は?』ときかれる。

 持っていなければ『出てうせろ、犬め』とどなられる。土人から見ると白人は全く人の道を知らないのである。 47:29

フランクリンはこういう話を軽い諧謔の調子で書いているが、我々はその底に土人への同情が流れているのを感ずる。少なくとも彼は教会で説教している牧師たちよりも土人たちの方が道義的に優れていることを認めていると思う。しかしそれにも拘らず彼は土人をしてその所を得しめる方法を考えようとはしなかった。

 新大陸の開拓のためには、気の毒ながら土人は亡びてもらはねばならぬ。これが、彼の態度である。自伝の中で土人との会議の際の土人の乱酔の騒ぎを描いた箇所の終わりに彼は云っている。『誠に地上の農耕者に場所を与えるため、これらの野蛮人を絶滅するのが神の企画であるならば、ラム酒がそのための手段であるかも知れぬということはあり得ぬことではない。ラム酒は、かって海岸地方に住んでいた部族を、既に悉く絶滅せしめたのである。』即ち土人にラム酒を飲ませてその弱点をつくのはアングロ・サクソンの移民ではなくして、おそらく神様だろうと云うのである。しかも、フランクリンはそれがアングロ・サクソンの所業であることは百も承知で右のごとく云っているのである。 50:00

参考文献:「日本の臣道 アメリカの国民性」和辻哲郎、「天皇と原爆」西尾幹二

2018/10/10 18:00公開


-和辻哲郎「アメリカの国民性」(一)-(GHQ焚書図書開封第174回)

2022-07-13 05:01:24 | 近現代史

GHQ焚書図書開封第174回

-和辻哲郎「アメリカの国民性」(一)-

目次

 日本の臣道

アメリカの国民性

 1. アメリカ国民性の基調としてのアングロ・サクソン的性格

 2. アメリカへの移住

 3. アメリカに於けるホッブス的性格の展開

 4. アメリカに於けるベーコン的性格の展開

 5. 開拓者的性格

 

かってバーナード・ショウがナポレオンを取扱った喜劇『運命の人』の中でナポレオンの口を通じてイギリス人の特性描写をやったことがある。中々うがった観察であるから、緒としてここに引用する。

 『イギリス人は生まれつき世界の主人たるべき不思議な力を持っている。彼は或る物が欲しいとき、それが欲しいということを彼自身にさえ云わない。後はただ辛抱強く待つ。其の内に、彼の欲しい物の持主を征服することが彼の道徳的、宗教的義務であるという燃えるような確信が彼の心に生じてくる。そうなると彼は大胆不敵になる。貴族のように振る舞い、欲しいものは何でも掴む。小売商人のように勤勉に堅実に目的を追求する。それが強い宗教的確信や深い道徳的責任感から出るのである。で彼は効果的な道徳的態度を決して失うことがない。自由と国民的独立とをふりかざしながら、世界の半分を征服し、併合する、それが植民なのである。またマンチェスターの粗悪品のために新しい市場が欲しくなると、先ず宣教師送り出して土人に平和の福音を教えさせる。 土人がその宣教師を殺す。彼は基督教防衛のために武器を執って立つ。基督教のために戦い征服する。そうして天からの報いとして市場を手に入れる。或いはまた彼は、自分の島の沿岸を防衛するために、船に教会師を乗せる 十字架のついた旗をマストに釘付けにする。そうして地球の果てまで航海し、 彼の海洋帝国に異論を唱えるものをことごとく撃沈、焼却、破壊する。さらにまた彼は、奴隷と雖も、英国の国土に足をふれた途端に自由になる、と豪語しておきながら、自国の貧民の子を6歳で売り飛ばし、工場で1日16時間、鞭のもとに働かせている。・・・総じてイギリス人が手をつけないほど悪いこと(というかよいことというか)は世の中に一つもないのである。しかもイギリス人が不正であることは決してないのである。彼は何事でも原理に基づいてやる。戦うときは愛国の原理に基づいている。泥棒するときには、ビジネスの原理に。他を奴隷化するときには帝国主義の原理に基づいている。他をいじめるときには、男らしさの原理に。彼の標語は常に義務である。しかし、その義務は必ず国民の利益と合致したものでなくてはならないのである。』

これは、ショウ一流の皮肉として、この喜劇の観客を苦笑せしめたに過ぎないかも知れない。しかし自分はここに赤裸々の真実をみる。そうしてこういう真実を単なる皮肉として 笑って済ませているところに、イギリス人の図太さを看取し得ると思うのである。

 我々はこの真実を真面目な箇所で捕らえることができる。それは、イギリスが最も偉大なものを算出した16世紀末より17世紀へかけての時代、これはまたアメリカへの植民が行われた時代の代表的哲学である。我々はここにイギリス人の真骨頂を見、 それがアメリカへ移されたことを重視するのである 現在の世界の大勢は400年前ヨーロッパ人の世界への進出を以って始まったのであるが、その先端をなしたのはアングロ・サクソンではなくしてラテン民族であった。ところでラテン民族にかかる力を与えたのは、羅針盤と火薬の発明なのである。アメリカ大陸の発見もアフリカ迂回航路の発見も皆羅針盤のお陰であった。メキシコ、ペルーの征服、アフリカのニグロの却掠は火薬の力によっている。当時メキシコとペルーとはアメリカ大陸に於いても最も文化の進んだ国であり、また金銀など物質の豊かさにおいてヨーロッパよりも優れていた。17:12

のみならず、その人倫的組織の完備に於いてはギリシャ・ヨーロッパさえ劣らなかったと云われている。しかしスペインの火器の力の前には脆くも崩壊せざるを得なかった。ニグロの王国もまた当時は立派な秩序、整った組織の下に豊富な産業を栄えさせ、特に教養が最下層まで行き亙っている点に於いてヨーロッパ以上であったと云われる。がこれらも火器には抗し得なかった。優れた者強き者は殺戮され、残った者は奴隷にされた。両大陸に 亙るこの殺戮、破壊、攻略は、世界史始まって以来の最も大仕掛けなものと云ってよい。

 16世紀にかくラテン民族が活躍していた時、イギリス人はまだ僅かにそれに追随する程度にすぎなかった。(18:50)

16世紀の初めには英国の人口は300万、スペインの人口は600万以上、 フランスは1500万、ドイツは2000万以上と云われている。1547年にヘンリー8世が没したときには、 英国はなお三流国であった た。その後エリザベス女王時代海の英雄たちによって急激に発展し、1588年のアルマダ艦隊撃滅は著しく国民の自信を強めたが、それでも女王死後の海軍力はまだ大したものではなかった。英国が強国となったのは17世紀中のことである。そうしてそれはまたアメリカへの植民の時期なのである。(24:33)

2.アメリカへの移住

アングロ・サクソンのアメリカ移住は、丁度このベーコンやホッブスの時代のことである。ウォルター・コーリが二艘の移民を率いてエリザベス女王の名に負うバージニアを開いたのは16世紀の末のことであったが、これはアメリカ土人(インディアン)の敵対によって失敗した。

やっと橋頭堡をつくるのに成功したのは17世紀の初め、二つの移民会社ができてからである。これらの移民は大半死滅し去るような困難に対して 猛烈に土人と戦い風土に抵抗して、内部へ浸透し始めた。やがて、1620年には有名なピューリタンの群れがマサチューセッツの岸へ辿りつき土人との間に平和条約や通商条約を結ぶことによって領土を拡大した。28:29

コネチカット、ロードアイランド、ニューハンプシア、バーモント、メーンなどは彼らの建造にかかる植民地である。かくて1643年にはニューイングランド植民地連合を形成するに至っている。更に1667年には、ニューヨーク、 ニュージャージー、デラウェア等を開くに成功した。このピューリタンの群れと並び立つのはウィリアム・ベンのひきいたクェーター教徒で、前者よりも大分遅く1681年にペンシルベニアに植民したのである。南部では1663年八人の貴族が特許を得て南カロライナを開いて以来、ニグロ奴隷を使役して貴族的色彩の強い濃厚な植民地をつくった。ジョージ2世の時には更に南方ジョウージアが開拓された。以上は新教を奉ずるアングロ・サクソンの植民であるが、なおほかに窮境 奉ずるラテン民族の植民も行われ、17世紀の末にはすでに英仏の勢力の衝突が起こった。英仏の争いは長期にわたって行われ、18世紀の中ごろに至って漸くアングロ・サクソンの勝利に終わった。が戦争は 人々を団結せしめる。植民地はこの勝利後間もなく本国議会と衝突し、後に1776年に至って独立を宣言した。そうして更に7年の間の苦しい戦争を続け、この戦争によって独立の国家を形成したのである。以上植民の歴史はアメリカ合衆国を作り出す歴史であると共にまたアメリカの国民性を作り出す歴史でもあるのである。然るに我々はこの歴史のうちに前述のホッブス的な性格やベーコン的な性格が顕著に働いているのを見出すことができる。

ホッブスによると、人には自然天賦の権利(jus naturale)がある。それは自己の生命を保持するためにしたいままのことをしてよいといふ自由である。かかる自由人を自然は平等 に作った。体力においても心力においても人々の間の差別はごく僅少なもので、大体は平等である、と彼は主張する。能力が平等であれば目的達成の希望もまた平等である。従って一つの物を二人が平等の権利を以って欲求するという事態が、絶えず起こってくる。勢い彼らは相互に敵となって争わざるを得ない。そこに『あらゆる人と人との間の戦争』がある。これが自然状態である。ここではいかなる行いも自然の権利に基づいてなされるのであるから不正ということは在しない。戦争状態における徳は力と詐欺とである。

しかし、このような自然状態は、自己の生命を保持するには最も都合が悪い、人は常に生命の危険にさらされ不安を感じていなければならぬ。従って人は、理性によって、この悲惨な生活からの脱却、生命の安全保障を要求する。そこに自然法が見出される。。即ち生命に害ある行為を禁ずる一般的法則である。ここに初めて人の行為に対する拘束、即ち義務が現れる。ホッブスはかかる法則として十九カ条を数えているが、重要なのは最初の数カ条である。自然法の第一則は右の平和の要求そのものを云い現している。『各人は平和に努めなくてはならぬ、平和の望みがある限りは、しかし平和が得られなければ、戦争のいかなる手段方法を用いてもよい。』これは平和の要求ではあるが、また戦争の冷酷な遂行の決意でもある。これは後に新大陸において露骨にその意義を発揮する点である。(37:17)

参考文献:「日本の臣道 アメリカの国民性」和辻哲郎、「天皇と原爆」西尾幹二

 

2018/9/12 18:00公開


-和辻哲郎「日本の臣道」(二)-(GHQ焚書図書開封第173回)

2022-07-11 04:57:10 | 近現代史

GHQ焚書図書開封第173回

-和辻哲郎「日本の臣道」(二)-

 尊皇の道は国初以来綿々として絶えず、日本人の生活の深い根底となっているものであります。武士たちが自分の直接の主人にのみ気をとられていた時代でも、その心の奥底には尊皇の精神が存していたのであります。それは稀には日本の国家を国外からの脅かすような力が現れてきた来た際、はっきりと露出しております。

 不幸にして武士たちは、国内の争いのために近視眼となり、自分の奥底にあるものを十分自覚し得なかったのであります。しかし、前に申し述べました二つの道も実を申せば最初から尊皇の道に含まれていた契機にほかならぬのであります。この点を簡単に指摘して置きたいと存じます。

 前述の如く死生を超えた立場は一方では絶対の境地に突入することによって得られました。ところでこの絶対の境地を我々の遠い祖先は尊皇の道に於いて把握したのであります。この把握の方法は、儒教、基督教、回教などの所謂世界宗教とは明白に異なってい居ります。

これらの宗教では絶対者はそれぞれの宗教独特の形に限定されているのであります。仏とか、エホバとか、アラーとかがそれであります。かく限定されている以上、他の宗教の神に対立せざるを得ませぬ、対立すればそれは相対者であって絶対者ではありませぬ。従って己の宗教の神を絶対者として主張するためには他の宗教の神を排斥しなくてはならないのであります。

エホバの神の如きはその排斥を特徴とする神でありまして、その故に妬みの神と呼ばれておりますが、この精神は基督教の歴史全体に濃厚に現れているのであります。先程も一寸触れました16世紀を例えに取りますと、この世紀の初めにはアメリカ新大陸やインドや南洋への交通が盛んになり、ヨーロッパの近代が華々しく始まっているわけであります。しかし、同時にそのヨーロッパに於いて異教徒の封殺という如きが累累と行われているのであります。

 異教徒は悪魔の弟子でありますから、どんな残虐な取り扱いを受けてもよいと人々は考えておりました。ヨーロッパにおいてさえもそうでありますから、もともと異教徒の住んでいるアメリカや東洋へ進出した伝道師たちが、悪魔退治の態度を以ってその土地の宗教に望んだのは彼らとしては当然なのであります。

 殊(こと)に当時海外進出の急先鋒でありましたスペインのカピタンたちがドミニカン藩の僧と一緒にアメリカで行いました悪魔退治は、実に残虐を極めたものであります。今のペルーの地にあったインカ帝国などは、立派な秩序を持った美しい国家でありましたが、文字通りに抹殺されてしまいました。

 日本に参りましたのはポルトガルの勢力でありますから、アメリカに於けるスペインほど乱暴ではありませんでしたが、それでも伝道者たちは悪魔退治を標榜しております。シャビエルは薩摩へ着くとすぐ悪魔の弟子たるボンズ(坊主)との戦を始めておりますが、この方針は山口へ行っても京都へ上っても同様であります。また彼のあとに渡来した伝道者においても同様であります。

これはただ一例に過ぎませぬが、その後300年の間にヨーロッパ人がその文明を世界各地に押し付けたやり方は、右の排他精神と無関係ではないのであります。しかしこの排他的傾向に於いては回教は基督教に負けるものであはありません。ただ、仏教のみがこの点で著しく寛容でありました。しかし、それは日本の仏教の特徴なので、印度の仏教に於いては他の宗教は外道として激しく排斥せられております。

このように絶対神あるいは絶対者を振り回す宗教ほど排他的傾向が烈しいのであります。このことはそれぞれの宗教の教義においても同様に申すことが出来ます。教義の内容は絶対者を説くのでありますが、しかしその表現は極めて特殊な形を持っております。その最も著しいのが十字架の基督の教えであります。かく教義が限定せられている以上、たの教義と対立し衝突せざるを得ませぬ。然るに我々の祖先は、絶対の境地を把握しながらしかもそれを絶対神として限定せず。またその教義をも作らなかったのであります。神代史に於いて最初に挙げてありますのは、天御中主尊とか国常立尊とかでありますが、しかし我々の祖先はそれを絶対神とか或いは最大の神とかとして祀って参ったわけではありませぬ。最も尊い神様として祀られているのは天照大御神であります。

この大御神が国土創造の神々よりも、またそれ以前の神々よりも大切なのであります。ここに我々は前述の世界宗教と明白に異なる点を理解しなくてはなりませぬ。我々の祖先は究極のもの、絶対的のものを特殊の形に限定しないで、不定のままに、無限定のままに留めているのであります。そうしてこの無限定の絶対者が限定された形におのれを現じてくる道を捉えたのであります。

その道は多くの神々となって現れますが、いかに多くとも互いに衝突はいたしません。そうして最大の神、天照大御神に帰一するのであります。かくして天照大御神は、究極の神ではなく途中の神でありながら、その故に反って絶対的なるものを、排他的にではなく即ち真に絶対的に表現するのであります。この点が天皇の現御神(あきつかみ)にまします所以と密接に連関いたしております。

 天皇は天つ日嗣にましますがゆえに、即ち天照大御神の神聖性をにないたまうがゆえに、現御神(あきつかみ)にましますのであります。その神聖性は絶対者のものでありますが、しかしその絶対者は無限定のままであり、そうしてその限定された形が天照大御神と天つ日嗣とであります。そうなれば天皇への帰依を除いて絶対者への帰依はあり得ないことになります。これが尊皇の立場であります。この立場は絶対者を国家に具現せしめる点に於いて所謂世界宗教よりも遥かに具体的であり、絶対者を特定の神としない点に於いて所謂世界宗教よりも一段高い立場に立つのであります。従ってどんな宗教をも寛容に取り入れ、これを御稜威(みいつ)の輝きたらしめることができるのであります。万邦をして所を得さしめるという壮大な理念はこの高い立場に立っているのであります。

 私は、右の点が非常に重大であると考えております。我々の遠い祖先は既に肇国(ちょうこく)の始めからこのことを自覚しておったのであります。人がその最も深い根拠たる絶対者にかかわる道は、ただ人倫的なるもの、特に国家を通じてのみ、真に具体的に実現せられる。

さて、所謂世界宗教が個人の立場から直接に絶対者に行き得るかのごとくに説いているのは、単なる見せかけに過ぎない。それらは実は国家の代用物として僧伽とか教会とかの如き人倫的組織を用いているのである。しかもその代用物を権威付けるために国家の神聖性を抹殺しようとしている。三百年前の武士たちが仏教を排斥する理由のひとつはここにありました。禅がどれほど武士に絶対の境地を教えたとしても、人倫の軽視を伴っている点は許すことができないというのであります。この見当は当たっております。絶対の境地に入るということと大君に仕え祀るということとは渾然としてひとつにならなくてはなりませぬ。

 天つ日嗣の現御神(あきつかみ)の尊崇はこの渾然たる一を実現したものであります。ここに自分一己の身命の価値などと比べ物にならない絶大な意義価値があるのであります。禅の心境として体験せられたのはこの意義価値の一面にすぎなかったのであります。

 次に問題となりますのは、今申した三百年前の、仏教を排撃した武士たちの立場であります。即ち死生を超えた立場は他方において道への奉仕によって得られたと申しましたが、この道への奉仕をもまた我々の遠い祖先は尊皇の道において自覚しておったのであります。その自覚は所謂清明心という概念によって現されております。これは我国の道徳の特徴を示している概念であります。何を心の清き明きと考えているかと申しますと、私を滅して大君に仕えまつることなのであります。即ち滅私奉公であります。

 少しでも私があれば、そこに濁った薄暗い心境が生ずる。この濁りを捨てて透明な清らかなる心持となるためには、あらゆる意味で私を捨てなくてはならぬ。これはいかなる共同体にも通用する根本的な倫理でありますが、我々の祖先はこれを最も大いなる共同体に於いて把握したのであります。従ってあらゆる人間の道は清明心に帰着すると申してよいのであります。我々の祖先はこの清さを重んずること、善を尊ぶよりも顕著でありました。通例、道徳的な価値は善悪によって現されております。特に近代ヨーロッパの道徳思想が伝わって以来このことは顕著でありますが、しかしこの善意とかヨイワルイとかと申す言葉は、我国でも支那でもヨーロッパでも、吉凶禍福(きっきょうかふく)の意味を含んでおります。Guter,Goodsなどがヨキ物即ち財(産)を意味しているのはその適例であります。

 従ってこの意味を重視すれば当然幸福説や功利説が出てまいるのであります。然るに我々の祖先は清さ穢さの別を非常に重んじて、利福の如きを眼中に置きませんでした。従って利福と行為の原理とする如き説はかって考えたことがないのであります。これは一つの民族の道義的性格を考える上に重大な意義を持った事実であります。

この性格からして前に述べましたような武士たちの廉恥を重んずる気風が生じ、そこから儒教の君子道徳に対する理解の道が開けたのであります。が武士たちに於いてこのように清さの体得が深められた半面には清明心が大君への奉仕であるという重大な面が閑居却されているのであります。ここに臣道の理解にとって重要な点があると考えられます。

 清明心は奈良時代から平安時代へかけての宣命には正直之心として現れている。臣が大君に仕えまつる道は常に正直心として説かれているのであります。

この伝統は鎌倉時代に至っても弱まっておりませんでした。

 幕府の政治家が政治の方針として第一に重んじているのは正直であります。また伊勢神道が始めて神道の教義らしいものを作りましたときに、天照大御神の御教として掲げたのも正直であります。この考えはやがて北畠親房の神皇正統紀の中に三種の神器の解釈となって現れました。鏡は正直を現し、玉は慈悲を表し、剣は知恵を現す。

 特に正直は 天照大御神の教えとして根本的な地位を占めているというのであります。この解釈は清明心の伝統を眞直に受け継いだものであり、儒教の考えなどに煩わせておりません。従って親房が三種の神器の意義を智仁勇として解釈したなどと申すのは明白な誤りであり、鏡は全然己れを没して物を映すものでありまして、少しでも己を出せば物は映りません。たとえ映っても歪んだ形になります。

 親房はここに無私の姿を見たのであります。無私なるが故に相手を生かせます。これが玉の慈悲であります。無私なるが故に真直ぐな正しい判断ができます。これが剣の知恵であります。このように無私を力説して天照大御神の御教えと致しましたところに、清明心の伝統が生きていると申してよいのであります。

 私を滅して大君に仕えまつるためには、身命を惜しむべきでないことは云うまでもありませぬ。しかし身命を惜しまぬだけでは滅私は成就致さないのであります。親房の眼前には主君のために身命を惜しまぬ武士は数え切れぬほどありましたが、しかしそれらは武士階級の私を脱することは出来なかったのであります。

 真の滅私は自分たちの階級、党派、或いは部属の利害を考えるような立場では決して実現されないのであります。大君より命ぜられました任務は公の任務、国家の任務でありまして、いかなる意味でも私を混じえるべきではありません。この公の任務を遂行するに当たり、死生を超えた立場を隅々までも徹底せしめること、それが滅私奉公であります。

 中でも特に注意を要しまするのは、臣の任務が人々の上に立ち人々を統率する任務でもあるという点であります。これは『民』と区別した真の本来の意味であります。かかる任務の遂行に私を混じえるということは、私の行為において私を発揮するよりも遥かに罪が重いのであります。

 自分の意を迎えるものを用い、直言するものを斥けるとか、自分の地位の権力を用いて自分一己の考え方を他に押しつけるとか、そういう云う態度はすべて皆臣の立場の『私』にほかならないのでありますが、これは普通に考えられている以上に重大な非行であります。即ちそれは不忠の最大なるものであります。

 以上の如く考えますると、清明心に徹底致しますることは死の覚悟よりも遥かに難しいのであります。身命を惜しげもなく捨てますることは、北條氏の家臣と雖も続々と実現致しました。清明心に徹するためにはさらに死生を超えて自己の任務の重大性を自覚すること、-その任務が、正直・慈悲・知恵を国家的に実現し給う大君のご活動の一部をなすものとして、実に神聖な根源より出づるものであることを自覚することが必要であります。

 死生を超える体験は敵と撃ち合う一時の間にのみ実現されても貴いものであるに相違ありません。しかしそれがさらに生活の全面に浸透し、渾身の清明心として実現されましたときには、正にこれ絶対の境地にほかならないのであります。

これは我々の祖先が既に千数百年前に把握しておりました臣道であります。その後主従関係の上に立つ武士の道として様々の試練を経てまいりましたのちに、再び世界史的な大きい舞台に於いてっ千古不磨の美しい結晶を形つくろうとしているのであります。この結晶の偉大なことはエジプトのピラミッドなどの比ではありません。これは世界史を前と後ろに分かつ巨大なモニュメントであります。

 参考文献:「日本の臣道 アメリカの国民性」和辻哲郎

2018/8/29 18:00公開


-和辻哲郎「日本の臣道」(一)-(GHQ焚書図書開封第172回)

2022-07-09 22:03:21 | 近現代史

GHQ焚書図書開封第172回

-和辻哲郎「日本の臣道」(一)-

『大君の御為には喜んで死なう』というのは軍人精神を体得する初歩の段階である、やがてその体得が深まってくると『敵を倒すまでは決して死んではならぬ』という烈々たる戦闘意識を信念的に持つようになる、これが海軍の伝統的精神である。

 人種偏見をもったルーズベルトは、日本人は死に、痛みや苦痛を感じない特殊な構造の脳をもっていると言っていた。

 立花隆は、デパート、結婚式場、子供のいる小学校で起こすイスラムの自爆テロと相手の軍、軍艦などを目標にした特攻隊を同じように考える愚劣な見解を主張している。

 今、日本人にある嫌韓、嫌中の感情は、名誉を重んずる日本人の気風と相反するものだからである。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

次に儒教と結びついた場合を問題といたします。それは、初めから儒教に教えられて生じた傾向ではなく、武士たち自身の体験の中から漸次形をなしてまいりまして、後に儒教と結びついたものであります。前にも申しましたように武士の生活が、主従関係だけでは解決が付かず、主従の道よりも深いものを求めてまいりました時には、赤裸々な実力の競争そのものが、一つの道を自覚させたのであります。それは、主従関係とは独立に身命を惜しまない潔さ、そのものを尊重することであります。実力の競争に於いて、勝ちさえすれば手段を選ばぬというのではない。卑しいこと穢いことは死んでもやらない。自分の潔さ、清さ、貴さを護るためには身命をも平然と捨てる。ここに、自分の身命よりも尊いものが、はっきりと見いだされているのであります。命を助かるためにはどんなことでもするという態度とは正反対のものであります。ここにも、死生を超えた立場が実現されました。戦国末期の武士の気風には、この立場から出た気節、廉恥がにじみ出ていたのであります。そうして、其の気風が江戸時代初期にはっきりと儒教に結びついたのでありました。武士と儒教との連絡は何も江戸時代に至って初めてついたというわけではりません。信玄家法などには、濃厚に儒教を取り入れております。しかし、当時には、まだ儒教とは引き離しがたいほど、強くは結びついていなかったのであります。それは、仏教とも、また基督教とでも自由に結びつき得たのであります。特に当時の切支丹との関係は、当時の日本の武士の気風がヨーロッパ人の眼にどう映ったかを示していて、興味深いものであります。

耶蘇会の傑物フランシスコ・ジャンビエルが日本へ参りましたのはコロンブスの第三回航海(南米発見)やバスコ・ダ・ガマのインド上陸から50年程度でありますが、また英国がスペインの無敵艦隊を破りました時より40年程度前であります。従って、スペインがアメリカ大陸を抑え、ヨーロッパの覇権を握っていた時代であります。その時代でもシャビエルは有数な傑物の一人でありましたが、耶蘇会としてはポルトガルの勢力と結びついております。その彼がポルトガルの船で日本から帰って間もなく日本人を賛美した手紙に書いております。日本人は今まで発見せられたうちの最良の民族である。異教徒の中には、日本人より優れたるものは見出せまいと思う。この国民は人づきあいが良く善良であるが、特に驚くべきはその名誉を重んずる国民で、如何なるものよりも名誉を大切にしている。貧乏は、ここでは恥でない。富より名誉のほうが重いのである。従って、貧乏な武士でも富裕な庶民より貴い。これは、基督教諸国にもない美風である。庶民は武士を敬愛し、武士は領主に仕えることを喜んでいる。これは、そうしないと罰せられるからでなく、そうしないことが恥ずべきことだからである。またこの国民の間には盗賊が少ない。盗みを憎むことが甚だしいからである。基督教であると否とを問わず、これほど盗みを憎むところを見たことがない。また、この国民は道理を好み、道理に適うことを聞けばすぐに承認する。いけないのはむしろ坊主の類である。こういう風に申して居るのであります。この種の意見は、他の場合にも色々な形で延べております。

シャビエルにとりましては、日本民族が優秀であるということを、基督教に適しているということと同義なのであります。ところで、その優秀性として把握せられたところは、取りも直さず身命より貴いものをはっきりと摑んでいる点であります。右の手紙より16年後、ルイス・フロイトが京都で書きました手紙には、シャビエルが日本へ来たのは聖霊のうながしによるものである。なぜならば、シャビエルの言っているとおり、日本国民は文化、風俗、及び習慣に於いては多くの点でイスパニア人よりも遥に優れているからである。と申しておりました。フロイスは日本史を書き残しました。かなりの傑物でありますが、それが当時の世界の最強国民であるスペイン人よりも日本人のほうが優れているとはっきりと言い切っているのであります。そうして、日本民族の優秀性がシャビエルの日本伝道の理由であったと解しているのであります。これらの伝道師の見当は当たって居りました。ヨーロッパは、もう1000年も殉教者が途絶して居りましたが、日本では、その後、続々と殉教者が輩出致しました。これは、当時のヨーロッパ人が実際驚嘆したところでありますが、日本にとっては危険この上もなかったのです。スペイン人がメキシコやペルー(インカ帝国)に於いて何をしたかを知っている者にとっては全く冷汗を流さざるを得ません、幸いにして我々の祖先は、インカ帝国などの運命などを詳しくは知らないながらも、勘で以て危険を防ぎました。その際、この防護方法が消極的でなく積極的であったらと、我々は考えますが、しかし当時の時勢としては止むおえなかったかも知れません。

そういう武士の気風に対して、国家を危うくしない健全な理論的根拠を与えたのが儒教なのであります。

儒教は、本来君子道徳を説いております。君子は、本来は文字通りの意義。即ち、民衆を統率する立場のものを意味しているものでありますが、その君子の任務は道を実現する所にあると儒教は説くのであります。

その君子の道が武士の道として理解されました。武士は士であり、士大夫なのであります。山鹿素行の『道』はかかる考えの代表的なものと云ってよかろうと思います。かくして武士の任務は道を実現することに認められました。身命よりも尊いものは道として把握されたのであります。この立場では武士の古風な主従関係は儒教風の君臣関係として活かされております。しかし、それは主として封建的な君臣関係であって未だ十分に尊皇の道とはなっていません。たとひその点に目覚める人がありましても、初めには、ただ儒教風の大義名分の思想を媒介として、従って、尊皇論でなく『尊王論』として自覚されたのであります。以上二つが武士の道として自覚されたのであります。いづれも深い意義を持っているものでありますが、しかし中世以来の武士の生活が主として内乱の上に立っていたという制限は脱することが出来ません。それは国内のみを見て国外を見ない立場であります。従って日本の国家についての自覚が不十分でありました。死生観を超えて絶対境に没入すると申しましても、また身命よりも道を重んずると申しましても、それを国家に於いて実現するというところには到らなかったのであります。

ここに武士の道が更に尊皇の道として鍛え直さなくてはならないところがあるのであります。尊皇の道は国初以来綿々として絶えず、日本人の生活の深い根底となっているものであります。武士たちが自分の直接の主人にのみ気をとられていた時代でも、その心の奥底には尊皇の精神が存していたのであります。それは稀には日本の国家を国外からの脅かすような力が現れてきた来た際、はっきりと露出しております。不幸にして武士たちは、国内の争いのために近視眼となり、自分の奥底にあるものを十分自覚し得なかったのであります。しかし、前に申し述べました二つの道も実を申せば最初から尊皇の道に含まれていた契機にほかならぬのであります。この点を簡単に指摘して置きたいと存じます。前述の如く死生を超えた立場は一方では絶対の境地に突入することによって得られました。ところでこの絶対の境地を我々の遠い祖先は尊皇の道に於いては悪したのであります。この把握の方法は、儒教、基督教、回教などの所謂世界宗教とは明白に異なってい居ります。これらの宗教では絶対者はそれぞれその宗教独特の形に限定されているのであります。仏とか、エホバとか、アラーとかがそれであります。かく限定されている以上、他の宗教の神に対立せざるを得ませぬ、対立すればそれは早退者であって絶対者ではありませぬ。従って己の宗教の神を絶他者として主張するためには他の宗教の神を排斥しなくてはならないのであります。エホバの神の如きはその排斥の特徴とする神がありまして、その故に妬みの神と呼ばれておりますが、この精神は基督教の歴史全体に濃厚に現れているのであります。先程も一寸触れました16世紀を例えに取りますと、この世紀の初めにはアメリカ領大陸やインドや南洋への交通が盛んになり、ヨーロッパの近代が華々しく始まっているわけであります。しかし、同時にそのヨーロッパに於いて基督教の封殺という如きが累累と行われているのであります。

 参考文献:「日本の臣道 アメリカの国民性」和辻哲郎

2018/8/15 19:00公開