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日常生活の中で思ったこと、感じたことを気の向くままに書き綴っています。

-南北戦争で自信を得たアメリカの極東進出-(GHQ焚書図書開封第171回)

2022-07-08 07:21:26 | 近現代史

GHQ焚書図書開封第171回

-南北戦争で自信を得たアメリカの極東進出-

 

1823年のアメリカのモンロー宣言に対して、ヨーロッパの国々の中で、イギリスは、南アメリカに植民地を持っていた強敵スペインを倒したい一心から、アメリカを支持・応援した。

 南軍のために作られた290号(後にアラバマ号)は、世界各地で北軍の商船を撃沈していた。アラバマ号には総員84名中に南軍の兵士は10数名しかおらず、他は全部イギリス人で、その半分は予備役兵だった。

パーマストンによると、仏蘭西のナポレオン3世は、メキシコに仏蘭西の植民地帝国をつくろうと夢見ていたということだ。

 英仏の野心を粉々にしたモンロー主義の堅持で成功し、南北戦争で大きな国家となったアメリカは極東進出への自信を得た。時の大統領のルーズベルトは人種差別主義者で、中国ファンで阿片で儲けた一族であった。

リリオカウア王廃止の後、なかなか議会の賛成を得られなかった布哇併合条約も、米西戦争による帝国主義の機運に乗じて議会を通過させられ、アメリカ領土となる道を進んだ。

 布哇の人口の半分が日本人になった時から、人種差別主義者のルーズベルトは反日政策を展開することになった。

サモア諸島をめぐる米英独の領土争いでは、イギリスがドイツに妥協し、最終的にドイツ、アメリカが分割統治することになった。

 

※阿弗利加・亜弗利加〈アフリカ〉、土耳古(トルコ)、白耳義(ベルギー)、布哇(ハワイ)仏蘭西〈フランス〉、波蘭(ポーランド)、露西亜(ロシア)、独逸(ドイツ)、欧羅巴(ヨーロッパ)、拉丁亜米利加(ラテンアメリカ)、英吉利(イギリス)、和蘭(オランダ)、呂栄(ルソン)、比律賓(フィリッピン)、葡萄牙(ポルトガル)、西班牙(スペイン)

 

※南北戦争での最終的な動員兵力は北軍が156万人、南軍が90万人[18]に達した。

両軍合わせて50万人近くの戦死者を出した。これはアメリカがこれ以降、今日まで体験している戦役史上、最悪の死者数である。なお、北軍の公式戦死者数は36万4511人であるが、南軍の公式な戦死者数のデータは存在しない。しかし、陸軍憲兵司令官の報告書には13万3821人とある

 

 参考文献:「フィリッピンの研究」佐藤秀男、「GHQ焚書図書開封第5巻」西尾幹二、「ザ・ロスチャイルド」林千勝

2018/08/01 18:00に公開


-植民地フィリピン成立史(1)-(GHQ焚書図書開封169回)

2022-07-02 04:28:50 | 近現代史

GHQ焚書図書開封169回

-植民地フィリピン成立史(1)-

フィリピンは、ルソン、ミンダナオ島を含め大小7883の島からなっている。スペインのフィリップ2世の植民地時代に、フィリップナからフィリッピンになったと言われている。面積は114643平方マイルで「東海の真珠」とも言われた。当時は一国として統一されておらず、ボルネオから渡来した後期異民族イスラム教徒のモロ族が一大勢力を占めていた。日本では秀吉の時代であり、スペインへの服従要求に対して堂々と拒否をしていた。

 秀吉には、北京に天皇を置き、唐天竺を配下の武将に分け与え、東アジア全体を統一しようとする野望があった。したがって、フィリップ2世も一目を置いており、マニラの総督に、日本には手を出すなと命令をしていたのである。

フィリッピンの完全領有化への挑戦は、ピラロボスから始まり、「剣と教典」を武器にしたミゲル・ロペス・デ・レガスピが完全領有化の偉業を達成した。

1870年になると、フィリピンにおいて、土人僧侶とスペイン僧侶との対立が激化し、土人僧侶のゴルゴス、サモラ、ゴメスが銃殺されて以降、スペインの苛斂誅求に対し革命ののろしをあげたのは、ホセ・リサール・イ・メルカドが最初であった。彼も、また最後はスペインによって銃殺された。次に続いたアンドレス・ボニフアシオは、秘密結社カプチナンを創設し、用意周到に準備した。しかし、独立革命の方針をめぐってエミリオ・アギナルトと対立し、アギナルドによって銃殺刑に処せられた。

 参考文献:「白人の南洋侵略史」柴田賢一

2018年7月4日18:00公開


-オランダを封じ込めたイギリスの深謀遠慮-(GHQ焚書図書開封第168回)

2022-07-01 07:40:02 | 近現代史

GHQ焚書図書開封第168回

-オランダを封じ込めたイギリスの深謀遠慮-

オランダの国家財政を支える過酷な強制栽培制度は、蘭領東インド(インドネシア)を苦しめた。フランス革命後、オランダはフランスの支配下に入った。ナポレオンの失脚後、フランスから独立したオランダは、今度は世界の海を制覇しようとするイギリスと対峙することになる。

やがて、息を吹き返したフランスに対抗するため、イギリスは一転して、対峙していたオランダと手を結ぶことになる。まさに、パーマストンが言っていた、国家には「国家には永遠の友も永遠の敵もいない。あるのは永遠の国益のみ」のとおりである。

 北ボルネオでの統治に成功したイギリスに刺激され、オランダは英蘭ロンドン条約で獲得したジャワ島以外の外領(スマトラ、小スンダ、ボルネオ、セレベス、マラッカ、モルッカ諸島)の放置政策を関与政策に転換したため、国力を削ぐ現地住民との長い戦いの泥沼に引きずり込まれることになった。裏で、イギリスはこれら外領の領主を支援していたのである。

 1824年のアチエ統治に関わる英蘭条約は、オランダ人の権力をイギリスのもとに従属させる目的で結ばれたのである。その結果、困り果てたオランダは1872年イギリスとスマトラ条約を結び、アチエの統治をオランダの自由になるようにしたが、その後、アメリカ、イタリア、ドイツも海路の要衝アチエを狙っている状況になり、さらにオランダはアチエ以外の外領統治のための戦争費用増大で財政難に陥った。

 特に、イギリスにそそのかされて行った1873年~1908年まで続いたアチエ戦争はオランダにとって致命的な打撃を与えた。

イギリスは、オランダが豊かになること、近代化すること、資本主義国家として発展することを阻止することを望んでおり、みごとにその目的を達成したのである。

 参考文献:「蘭印・仏印史」大江滿雄、「蘭印の知識」朝倉純孝

 関連動画:GHQ焚書図書開封13回、160回、161回、163回、166回

2018/06/20 18:00に公開


-ボルネオ・ブルネイ・スマトラ・パフアニューカレドニア-(GHQ焚書図書開封第167回)

2022-06-29 01:44:05 | 近現代史

GHQ焚書図書開封第167回

-ボルネオ・ブルネイ・スマトラ・パフアニューカレドニア-

西インドとはインドを中心にして、西半球全体、東インドは、東半球全体を指していた。蘭領東インドは東インドの一部の蘭領地域を示している。

 蘭領東インドは、主として回教圏であり、王族が分割して支配しており、統一国家はなかった。

 英領ボルネオは、1824年の英蘭協定によってイギリスが獲得したもので、北ボルネオ、ブルネイ、サラワクからなっている。イスラム教サルタンの所領であったが、1898年、サルタンから一部割譲した。「権利が先で事実は後」という先進国の横暴の結果であった。

  北ボルネオの産物は、木材、サゴ、コメ、ヤシノミ、ゴム、コーヒー、果実、肉豆冠(ニクズク)、胡椒、樟脳、藤、タピオカ、甘薯、石炭、鉄、金、鉱油であった。

 面積は31,106マイル、人口密度は86人/平方マイル。

 人口27万の内、ヨーロッパ人は300数十名で、支那華僑が4万余人であとは土人であったが、イギリス植民地会社の植民地的搾取の他華僑の商業資本により搾取され、苦しい生活をしていた。

  ブルネイ王国は、大部分が密林地帯だが、産物としてカッチ、ゴム、ジェルートング、サゴ、米、石油、石炭が豊富であった。

 人口3万で面積は2,280万マイル、人口密度は12人/平方マイル。

ここも、北ボルネオ同様に、イギリス人と華僑の二重搾取を受けていた。1888年にイギリスの保護国になり、サルタンが2,100ポンドの年金を受けることで売国した。指導者階級が民族を裏切ったのである。

  サラワク王国は、ブルネイと同時期にイギリスの保護国になったが、他の2国と違い、イギリスと華僑の二重搾取を受けていなかった。外交権はイギリスが握っていたが、内政はイギリスの干渉を受けていなかった。その理由は、白人の血が混じったジェームスブルークが王族になっていたためである。面積は5万平方マイル、人口は47万、人口密度は9人/平方マイルであり、農業、鉱業が盛んで、ゴム、胡椒、石炭、石油を産出する。

  マラッカ海峡を隔てて、マレー半島と対するスマトラ島は、8世紀にスリウィヂャ王国が勢力をもっていたが、その後衰退し、モジョバイト王国に変わった。1292年にマルコポーロが、1508年にポルトガルのアルプケルケ、1595年にオランダのハウトマンが訪れている。ミナンカバウ国が衰退後は、小酋長が蟠踞しており、無政府状態であった。このチャンスをとらえてイギリスが侵略を開始し、バタン地方をオランダから奪取したが、その後英蘭条約で、オランダのマレー半島の植民地と交換して、手放した。イギリスは支那への侵略のために、支那と陸続きのマレー半島が欲しかったのである。スマトラ島を手に入れたオランダは、不幸にもアチエ戦争に巻き込まれ長年苦しむことになった。

  地上の楽土として16世紀後半にもてはやされたバリ島は、サルタンの領土であったが、オランダに明け渡した後は、王族と民衆との間を遮断され、王族の力は衰退の一途をたどった。

  面積80万平方キロ、人口密と1人/平方キロのニューギニアは、グリーンランドに次ぐ世界第二位の大島である。西側はオランダ領で、東側の北方はオーストラリアの委任統治領、東側の南方はイギリス領であった。天産物に恵まれ、金、石油が産出される。原住民は獰猛で、首狩りの悪風があり、原始生活を平然と行っている。

 参考文献:「GHQ焚書図書開封第2巻」西尾幹二、「蘭領印度農業政策史」関嘉彦、「白人の南洋侵略史」柴田賢一、「蘭印侵略史」デ・クラーク、「大東亜戦争の開戦目的は植民地解放だった-帝国政府声明の発掘-」安濃 豊

2018/06/06 18:00に公開


-強制栽培制度を正確に批判した関嘉彦先生-(GHQ焚書図書開封第166回)

2022-06-26 23:17:18 | 近現代史

GHQ焚書図書開封第166回

-強制栽培制度を正確に批判した関嘉彦先生-

明治維新前に、すでに太平洋の島々は欧米諸国に侵略されていた。

1824年の英蘭ロンドン条約締結までは、東インド地域は英蘭の権益争いの場であった。

 条約締結後も、イギリスは、蘭領東インドのアチエ民族をそそのかし、オランダの覇権を奪うためアチエ戦争を裏で操るなどオランダの勢力低下に力を注いだ。

1805年のトラファルガーの海戦から第一次世界大戦までの100年間は、イギリスが統治する平和の時代(パクス・ブリタニカ)だった。

 主食の米づくりを封じて、輸出用としてお茶、コーヒー、藍、砂糖を強制栽培させてことが、インドネシアの人たち(土民、原住民)を苦しめた。

 植民地での出来事は王室の関係者と現地総督以外には知らされず、具眼の士が暴露小説を書いて本国国民に植民地の実情を知らせるぐらいだった。

 強制栽培制度の生みの親は、ファン・デン・ボッシュであったが、現地の王同士の争いを画策し、無力化すると同時に、原住民や外国要人、記者と王様との接見を固く禁じた。徹底して空位化、傀儡化したのである。

J.S.Furnivalは「Netherlands India 1939」の中で、強制栽培制度は現地人の福祉向上に寄与したと説明しているが、これに対し、関嘉彦先生は総輸出額、綿製品の輸入額の増加額比較だけで貢献度を論ずるのでなく、物価上昇率も考慮した場合、現地人に悪影響(主食欠乏による飢饉、飢餓)を及ぼしたことは明白であると論破している。

このことが、後にインドネシアの植民地解放戦争(大東亜戦争)へとつながっていったのである。

 参考文献:「GHQ焚書図書開封第2巻」西尾幹二、「蘭領印度農業政策史」関嘉彦、「白人の南洋侵略史」柴田賢一、「蘭印侵略史」デ・クラーク、、「大東亜戦争の開戦目的は植民地解放だった-帝国政府声明の発掘-」安濃 豊

関連動画:「GHQ焚書図書開封第12,13回」

2018/05/23 に公開


-目を凝らして見よ『近代の闇』-(GHQ焚書図書開封第165回)

2022-06-23 04:49:48 | 近現代史

GHQ焚書図書開封第165回

-目を凝らして見よ『近代の闇』-

 

西夷の海上に跋扈すること、幾度三百年にして土彊は日に廣く、

 意欲の日に満つるは、是れ其の智勇の大いに人に過絶する者あるか。

 仁恩の甚だ民に給うべきか。禮楽、刑政の脩備せざるなきか。抑も神造鬼

 設にして、人力の能くなす所にあらざる者あるか。而も皆、然るにあ

 らざるなり。彼の其の恃みて以って技脩を逞うする所の者は獨り一耶蘇教あるのみ。

つまり、水戸學では、歴史を動かしている主要モチーフは、キリスト教であると洞察している。

 

 1550年~1850年の間の300年は、ヨーロッパでは宗教内乱(軍事革命)の時代であり、キリスト教が侵略の先兵の役割をした時代であった。

 日本はこの時期、鎖国時代であり、外の世界は生々しい悪魔的世界とみており、そしてその原因はキリスト教であり、敵対的な感情をもっていた。これは、パラダイムシフトした現代では頑迷固陋とも言えるが、この水戸學の排外主義が尊皇攘夷を生み出し、明治維新の原動力となったことは事実である。

 

 「近代世界システム」はヘゲモニー(覇権)の争いの中でイギリスが、スペイン、オランダ、フランスを抑えて最後に勝利者となるパックス・ブリタニカが実現していくプロセスである。

 

 「近代世界システム」ウォーラステインには宗教の及ぼす影響が排除されているし、どこで富を得ていたのか、どこから収奪したのかについては、反省がない。それは、インドであり、東南アジアであったはずだ。

イギリスは、ビルマを植民地にした際、コンバウン王朝の王族をインドに流し、求心力を失わせた。同じように、インドを植民地にした時は、ムガル帝国の王族をビルマに流し、5年後に亡くなったバハードゥル・シャ2世国王の遺体すら故国に戻さなかった。これら植民地にされた王族の末路は実に悲惨な結果となっているが、歴史上からは抹殺されている。このようにして、民族独自の文明が破壊されたのである。

 主我的価値観のある西洋の文明にはある種の閉鎖性がある。

 日本の戦争をどう見直すか、どう解釈するかは、これからの日本の歴史にとって重大な案件である。

 西洋人の認識の仕方を学んで、そこから抜け出ない日本人が知識階級、指導者階級が圧倒的に多いのは何事か?

 参考文献:「新論」会澤正志斎、「近代世界システム」ウォーラステイン/翻訳川北実

2018/05/09 に公開


-「閉ざされた西洋」を知る-(GHQ焚書図書開封第164回)

2022-06-21 16:11:43 | 近現代史

GHQ焚書図書開封第164回

-「閉ざされた西洋」を知る-

イングランド王国前史-アングロサクソン七大国物語-

スコットランド・ルネサンスと大英帝国の繁栄

ヴィクトリア文化の諸相

ヴィクトリア朝英国の食事と生活

 薔薇戦争の新史

イギリス王室1000年の歴史

メイドと執事の文化誌-英国家事使用人たちの日常-

英国メイドの日常

 英国ティカップの歴史

 使用人の見た英国の二十世紀

       2014/10/9 御茶ノ水 丸善店頭の英国紙コーナー

 

上記が現代日本人が、貴族・世界の王者としてイメージしている英国像である。

 

 戦前の日本人がイメージしていた英国像は「アジア侵略秘史」によると太平洋の島々を侵略していたという国家である。

 東部

・ハワイ群島

・ワシントン島

・ファニング島

・フェニックス島

・サモア島

・トンガ島

・マルデン島

・マーケサス島

・ソサェティ島

・バウモウ島

・ロトカイル諸島

・クック諸島

 中部

・マリアナ群島

・マーシャル群島

・パラオ群島

・カロリン群島

・ヤルート島

・グアム島

・ニューギニア島

・ナウル島

・ビスマルク群島

・オースオラリア

・デルベート島

・エリス島

・大洋島

 

・ソロモン諸島

・サンタクルス

・ニューヘブラス

・ニューカレドニア

・フィジー諸島

・ニュージランド

・フィリピン

・モルッカ

・ボルネオ

・セレベス諸島

・スマトラ

・ワンカ

・バリー

・ジャバ島

・チモール

・クリスマス

・ラブサンド

・セイロン

 

美しきものの背後には醜きものがあり、優しきものの背後には怖きものがあるという現実のギャップがあるにも拘わらず、

 世界の学問と歴史が、白人優位の観点で展開し、日本人は、それを自明のごとく受け入れて、今日の学問も今日の歴史も、欧米のたてた理念と理論で展開しているのである。

  日本の獲得した近代技術文明というものは、100%西洋から移植、模倣、摂取したものとは言えない、家庭生活、風俗、道徳、商習慣、政治の運営の仕方、教育の在り方が文化というものであるが、ユニークであり、異質であることを考えると、西洋人の見地から近代を語ることは正しいとは言えない。

  東アジアで、また太平洋の島々でどういう悲劇がおこなわれ、何があったかは大変大きな問題だが、「近代世界システム」では、東アジア侵略によって世界を支配したとだけしか書かれていない。西洋の歴史観では、実際におこなわれた具体的な犯罪行為を隠しているのである。

 西洋の歴史観に乗っかるだけで、それを、総合的に論述する熱意が我国の歴史学会にまったくないのが不思議である。

  戦後、GHQ政策によって日本は「閉ざされた言語空間」に置かれたと江藤淳が述べているが、日本の視点からの歴史観が根付いていないことを鑑みると、明治以降から、西洋によって日本は「閉ざされた言語空間」に置かれていたとも言えよう。

 

イギリスのニュージランド侵略の歴史

・イギリス人ジェームズ・クックがニュージランドを再発見

・ニュージランドの三か所にイギリス領の標札が立てられる

・マースデンがニュージランドに渡航

・ニュージランドでマオリ族戦争が続く

・イギリスがニュージランドに駐在官を置く

・ウェイクフィールドがニュージランド教会を組織

・ウェイクフィールドがニュージランド会社を創設

・イギリスがニュージランドをオーストラリアの属領とする

・ニュージランドでイギリス人によるマオリ族虐殺が続く

・スコットランド会社がニュージランド南島に移民を送る

・カンタベリー協会がニュージランドに多数の移民を送る

・ニュージランドマオリ族、1853年の土地契約を承認せず

 

明治以前は、オランダから世界の知識を得つつ、水戸學を確立し、日本の立場から世界を見ることが出来た(尊王攘夷)。そして、明治維新を無事乗り切った後は、ヨーロッパの視点で世界を見るようになった(攘夷から開国へ)。ところが、第二次世界大戦前になると、再び、日本の立場から世界を見なければならないことに気付いた(グローバリズムの生々しい脅威を自覚した)。終戦によって、再び、欧米の視点で世界を見ることに誘導された。終戦後70年を経た現在、隣国からの脅威も増大し、再び日本の立場から世界を見なければならない時代になってきている。

 日本の立場から世界を俯瞰するには、日本の二重性、双面身を自覚することが大切だ。

 

 参考文献:「近代世界システム」ウォーラーステイン、「近代世界システムと植民都市」布野修司」、「米英のアジア・太平洋侵略史年表 1521-1939」柴田賢一

2018/04/25に公開


-太平洋に嵐を呼ぶ日本人とオランダ人-(GHQ焚書図書開封163回)

2022-06-13 17:18:02 | 近現代史

GHQ焚書図書開封163回

-太平洋に嵐を呼ぶ日本人とオランダ人-

寛永元年(1624年)スペインとの通商が禁止され、寛永16年(1640年)には、オランダ、支那を除く国に対して鎖国令が出された。

その年、オランダのバタビア総督は、エンヘル号とフラフト号を派遣し、クアストとタスマンの両名に日本近海の北海を探検させていた。

 徳川幕府の独占貿易は御朱印船により行われていた。四代将軍(徳川家綱)のとき、佐倉藩主の苛斂誅求な税の取り立てに抗議して、佐倉惣五郎事件が発生した。

 鎖国令が出された前後、進取の気風に富んだ日本人は、台湾、フィリピン、シャム、安南へと渡航し活躍した。原田孫七郎(ルソン)、呂栄助左衛門(ルソン)、小笠原貞頼(小笠原)、松本七郎兵衛(安南)、山田長政(暹羅)、荒木宗右衛門(安南)、濱田彌兵衛(台湾)などが有名である。

 鎖国時代、海外との人の出入りは抑制されたが、南蛮情報については、軍事技術、軍事問題は幕府のみに限定入手でき、天文学其の他のものについては自由に入手できた。持ち前の知識欲、勤勉性、研究熱心のお蔭で、この時代に独自の民族文化が醸成された。ただし、キリスト教、イスラム教、韓国儒教など原理主義的なものは、ある程度以上は受け入れないと言う選択的な受け入れ方をしていた。

 1975年。フランスがオランダに侵攻すると、オランダ王ウィリアム5世はイギリスへ難を逃れた。オランダ王となったルイ・ボナパルト(ナポレオン)は、ヘルマン・ウィレム・デンデレスを東インド総督に任命し、統治させた。デンデレスは熱心なナポレオン崇拝者であったが、極端な圧政を敷いたため、後に失脚することになった。

  イギリスの巧妙な戦略は、両方の力を削ぐための代理戦争をやらせて、高見の見物をすることだった。インドネシアアチエ族とオランダ、インドシナとフランス、ロシアと日本との戦いがそうだった。

 参考文献:「蘭印・仏印史」大江満雄

2018/04/11に公開


-「鉄砲伝来」(1543)から現代を考える-(GHQ焚書図書開封162回)

2022-06-05 17:48:27 | 近現代史

GHQ焚書図書開封162回-

-「鉄砲伝来」(1543年)から現代を考える- 以後予算(いごよさん)かかる鉄砲伝来

日本とオランダとの交易の道を開いたウィリアム・アダムス(三浦按針、慶長5年(1600年)臼杵に漂着、元和6年(1620年)家光時代に55歳で逝去)。

 慶長14年(1609年)、オランダ国王の書簡により、スペイン、ポルトガルが日本から退くことになった。

プロテスタントのオランダは、カトリックのスペイン、ポルトガルと違い政経分離の重商主義政策を強調し、日本との交易を望んだためである。

更に、ブルトロメ・ラス・カサスの「インディアスの破壊についての簡潔な報告」を利用したスペインの先住民に対する残虐性についての幕府への洗脳工作も功を奏した。

 鹿児島に鉄砲伝来後、信長の関心は武器と比叡山焼き討ちに見られるように宗教に対しての政治の優位性を示すことであった。

 17世紀は、造船技術及び文明のレベルにおいてもオランダがイギリスを陵駕しており、時を同じくして起こったインドネシアでのアンボイナ事件もあったことから、イギリスはインドとシンガポール統治に重点を移したため、イギリス及びオランダとの貿易は、オランダ一国に絞られていった。

 秀吉時代は、石田三成、小西行長、加藤清正もキリスト教信者であった。

アンチキリスト教政策は、寛永11年から始まり、13年に海禁政策とした定着した。鎖国と言えないのはオランダ、シャム、朝鮮とは交流があったためである。

 鎖国が可能だったのは、当時、日本の金銀銅の産出量が多く、慶安元年から60年間に金239万7000両、銀37万4000貫が貿易により支那、東南アジアへ流出したと言われているほど余裕があったのである。

 鉄砲伝来が我国にもたらした影響は

①加羅、天竺の他に、別の文明があることを知った。

②支那文明が座標軸であったが、西欧という座標軸があることを知った。

③普遍性のある科学技術を自家薬籠中の物とした。

つまり、日本近代化の幕開けが起こった。

 天才信長は、弾の装填に時間がかかる火縄銃の欠点をいち早く見抜き、三段撃ちという戦法をあみ出し、1575年長篠の戦いで武田勝頼を打ち破った。

ヨーロッパでこの戦法を採り入れたのは1631年のブライテンフェルトの戦いからで、実に、半世紀も遅れていたのである。

トラファルガーの海戦(1805年)から第一次世界大戦(1914年)までの間につくられた無差別戦争観に挑戦してきたドイツ。

 第一次世界大戦後、アメリカの台頭によって、人類の名において正しい戦争、間違った戦争という評価による差別戦争観が生まれ、戦争責任、戦争犯罪を追及するというキリスト教的、ユダヤ教的人類の裁きの法廷が開かれるように方向づけされた。その新しい「戦争と平和のルール」の被害を被ったのはドイツであり日本であった。

 参考文献:「蘭印・仏印史」大江満雄

2018/03/28に公開


-アンボイナ事件とオランダ東インド会社-(GHQ焚書図書開封第161回)

2022-05-07 21:48:17 | 近現代史

GHQ焚書図書開封第161回

-アンボイナ事件とオランダ東インド会社-

1607年、オランダ海軍は、ジブラルタルでスペイン海軍を破ったが、モルッカ、朝鮮、支那沖で八幡船(倭寇)に悩まされていた。

 1619年、オランダ東インド総督のヤン・ピーテルスゾーン・クーンは、ジャガタラ(バタビア、ジャカルタ)のイギリス要塞を破壊し、同時にバンダ、アンボイナ、モルッカ諸島への立ち入りを禁止した。

 1622年、オランダによる日本人が虐殺されたアンボイナ事件(イギリス人10名、日本人9名、ポルトガル人1名が処刑された)が発生。イギリスは東南アジアから撤退し、インド経営に注力するようになった。

クーンの政策は、独占、鎖国主義であり、東インド人の内部闘争を巧みに利用し、驚くべき陰険なものであった。

その後、英蘭戦争は4回続き(第1回は1652-1654年、第2回は1665-1667年、第3回は1672-1674年、第4回は1780-1784年)、4回目にオランダはイギリスに屈服した。

スペイン、ポルトガルが敗退し、オランダが台頭し、そのオランダもやがて力を失い、イギリスの支配へと変遷していったが、それぞれの国々は完全に植民地を失うことなく、第二次世界大戦まで存在し続けた。

また、当時、スマトラにはアチエ、マレー半島にはジョホール、ジャワ島にはバトゥーン、マタラ、マカッサル王国があり、モルッカ諸島にはテレナール、キドール王国、シャムにはカンボジア王国、ベトナム王国も存在していた。

 西欧人が、シンガポール、マラッカ海峡、ジャワのバタビア、マニラを抑えても、まだ点を抑えたに過ぎなかった。

これらの地域はイスラム教、ヒンズ教が根を張っており、仏教はベトナム、ラオス、カンボジアに強い力をもっていた。従って、中南米のインカ帝国、メキシコのアステカ帝国、カリブ海のキューバ、ジャマイカのように、あっという間に攻略され、先住民が奴隷とされることはなかった。

 1543年に種子島にポルトガルから鉄砲が伝来したと言われているが、それ以前から倭寇を通じて日本には鉄砲が入っており、1580年に日本が保有していた鉄砲は60万丁に達していた。日本を除く世界の総数が30万丁と言われているから世界一の軍事大国であった。

 1600年、豊後臼杵港に来たのはポルトガル船ではなく、1580年スペインから独立したオランダ船(リーフデ号、航海士ウィリアム・アダムス:三浦按針)であった。

 参考文献:「蘭印現状讀本」石澤豊、「蘭印・佛印史」大江滿雄、「白人の南洋侵略史」柴田賢一、「大南方地政論」小牧實繁、宇賀信夫

2018/03/14 に公開


 -蘭領東印度の地理と東インド会社-(GHQ焚書図書開封 第160回)

2022-04-19 05:15:49 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第160回 

-蘭領東印度の地理と東インド会社-

大スンダ列島のスマトラ島の北部は40年間、オランダと戦った勇敢なアチエ王朝があった。中部はナンガバン王朝の中心地で油田があった。南部パレンバンは商業都市でコーヒー、綿、カボック、魚、胡椒を輸出しており、マラッカ海峡に面したゴム生産地でイギリス資本が支配していた。昭和17年、日本の落下傘部隊が急襲降下したところである。

ジャバ島の中心地はバタビア(ジャカルタ)でオランダ東インド会社があった。インド人、ペルシャ人、支那人、ビルマ人が流入し、ヒンズ教、回教(イスラム教)が混在し、西側はイスラム教スンダ人が多く居住していた。東側はヒンズ教のインド人が多く住んでいた。

 世界で3番目に大きい島と言われるボルネオは、密林に覆われた秘境の地で、北の1/4はイギリス、南の3/4は阿蘭陀が支配していた。西側は支那人、マレー人が、南側はジャワ人、東側はセレベス島のブギン人が住んでいた。バリックパパン、パンジェルマシンが有名な都市である。支那人華僑がダイヤ族と組んで西ボルネオ(金、ダイヤの採掘地)を支那領としようと企んだ経緯がある。

セレベス(スラウェシ)島は、ボルネオに次ぐ4番目に大きい島で、マカッサル、アンボイナは香料、シナモンの生産地で、香料の争いであったアンボイナ事件において、多数の日本人、イギリス人が阿蘭陀人によって殺された。

 日本は、イギリス、阿蘭陀の植民地であったこれらの島々をイギリス、阿蘭陀から解放するために大東亜戦争を起こし、3000人の兵士によりその目的を達成した。インドネシアのために最後まで戦った日本兵の一人が92歳で最近亡くなった。

ポルトガル人による東洋進出は、15世紀後半、バスコダガマによりマラッカ海峡までに達したが、アラビア人マラッカ王により阻まれた。16世紀に入り、今度は19隻、1400人に及ぶ大船団を率いたアルプケルによりモルッカ諸島のアンボイナにまで達した。

スペインに支配されていたオランダ人による東洋進出は、4隻、248人を率いたコルネリウス・ホウトマンにより始まった。その時期は秀吉の征韓出兵の1595年である。

 当時の、東インド会社オランダ(1602年)、イギリス(1600年)、フランス(1604年))は、軍事的能力を有する商船を保有した国家内国家でもあった。この時期、日本では関ケ原の戦い(1600年)があり、また、伊達藩支倉常長が自前の商船でヨーロッパに辿り着いたのは1613年であった。

17世紀はオランダの時代と言われたのは、スペイン、ポルトガル、イギリスのように宣教を第一の使命とする侵略でなく、ユダヤ資本の提供を受け、政教分離の重商主義をとったことで、イスラム教徒など他宗教の国々の反発を和らげたためである。それが、オランダがユダヤ系商業民族と言われる所以である。

 参考文献:「蘭印・仏印史」大江満雄、「蘭印現状読本」石橋豊、「大東亜戦争の開戦目的は植民地解放だった」安濃豊、「アジアを解放した大東亜戦争」安濃豊、「THE ROTHSCHILD」林 千勝

2018/02/28 に公開


-真夏の夜の歴史放談 その2-(GHQ焚書図書開封 第159回)[桜H26/8/20]

2022-04-17 13:41:16 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第159回

-真夏の夜の歴史放談 その2-

「反日」という言葉はいつから使われだしたか?少なくとも21世紀になるまでは使われていなかった。

 「国防」、「国益」という言葉も使えなかった時期が長かった。

 GHQにより「我が国」、「国民」という言葉が禁止された時期もあった。

 世の中が反米容共の時代に、反米愛国(故赤尾敏)は受け入れられなかった。従って、著者は親米保守(アメリカの妾でなく正妻になる/福田恆存)でいたかった。

 反日の徒とは? 

・石破茂、前原誠司氏はアメリカ占領軍の歴史観そのままである。

・小泉進次郎氏はアメリカべったりの歴史観で日本の過去のことを全く知らない幼稚さがある。

・橋下徹氏は日本を侵略国家と呼んで憚らない。これに反対する石原氏とは世代の差と公言するほど知性が欠落している(知能はあるけど知性が欠落)。

・オリバー・ストーンはアメリカのやった原爆投下を非難しておりながら、戦前の日本と中国の歴史とアメリカの不当な介入について知ろうとせず、日本に対しては中国に謝れと強要する。

・東大教授藤原帰一氏は、アメリカの威を借りて日本の攻撃をする中韓と同じで、日本の右傾化について攻撃をする。(反米平和主義から親米平和主義に変わった左翼運動家)

・中韓以外のアジアの国々の人々に救いを求め、日本は中韓以外のアジアでは良いことをやっていたと日本人を喜ばす人は、自分たちは中韓で悪いことをやっていたと認めることである。外国系の黄 文雄(こう ぶんゆう)、呉 善花(オ・ソンファ)、石平さんが言う分には支障ない。

 洗国(せんこく)とは?

・農耕民族に対する侵略方法で、強制的に奥地へ民族大移動をさせ元の農耕民族の土地を奪ってしまうこと。この方法はスターリンも毛沢東も行っていた。 

 八代三期説とは民族浄化をするのに要する期間をさしている。具体的には600年をさしている(25年×8代×3期=600年) 

 自らのナショナリズムをグローバリズムと称するアメリカは、ドルによる金融支配方式と飛行機とミサイルによる制空権の支配という脱領土的植民地支配方式で世界を侵略している。

 参考文献:「天皇と原爆」西尾幹二、「アメリカと中国はどう日本を侵略するのか」西尾幹二、「同盟国アメリカに日本の戦争の意義を説く時がきた」西尾幹二

2014/8/20に公開


-真夏の夜の歴史放談その1-(GHQ焚書図書開封第158回)

2022-04-01 19:50:37 | 近現代史

GHQ焚書図書開封第158回

-真夏の夜の歴史放談その1-

世界史観の転換(正論に連載中)

第1章 アメリカとはそも何者か

第2章 ヨーロッパ500年遡及史

第3章 近世ヨーロッパの新大陸幻想

第4章 ヨーロッパの太平洋侵略と江戸時代の日本

第5章 ヨーロッパを超えよう!の旗をかかげたアメリカとロシアそして日本の国体の自覚

第6章 第1次世界大戦を機に変わった戦争史観 人類の名における「正しい戦争」

第7章 古代・中世ヨーロッパの闇を背後に抱かえる現代アメリカ像

第8章 地球規模でのフロンティアの消滅と資本主義の死

 

 日本は、ジュネーブ条約、ハーグ陸戦法ができる前の法意識、国際法がめばえた近世(18~19世紀)のヨーロッパの安定期からヨーロッパ文明を採り入れた。
国際法に基づく戦争の仕方から学んだのである。これが、今日、国際法に違反する南京大虐殺と言われるようなものは行っていないと主張する所以である。

アメリカはヨーロッパ以上に宗教を重視している国家。日本は、原理主義の宗教(キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、韓国儒教)を受け入れない。それは、強固な宗教的感情と意識の文化があるからである。神を信じている人はアメリカでは92%、ドイツでは60%、フランスでは50%、毎週教会へ礼拝に行く人はアメリカでは4割、イギリスでは1割、ドイツでは2割ぐらいいる。

 日米戦争の背景に宗教があるとの見方。

 清教徒VS水戸学。

 文明開化と尊王攘夷が日本人の国家意識を高めた。

 教会が政治的な力をもっていたヨーロッパでは、宗教権力から国家権力を守るために政教分離の考え方が出てきた。

 日本では、国家権力から宗教を守る考え方であったが、オーム真理教事件からその考え方に疑問をもつようになった。

 宗教には、個人の心との関係と公との関係があり、キリスト教は両方をもっている。

 日本では個人の心との関係は仏教が担っており、公けとの関係はは天皇・神道が担っていた。

 10世紀以降、中国文明に対して鎖国(遣唐使の廃止、元会儀礼の廃止)していたが、14世紀頃か西洋文明が接近してきて、江戸時代には第一の開国、明治時代には第二の開国をし始めた。

 戦国時代はイタリアのルネッサンスに似ていた。

 縄文以来、日本にはシベリア、朝鮮半島、ポリネシアなどあらゆる地域から多様な民族が集まり、多様な人種国家だった。いわゆる劇場型国家だった。これが、ヨーロッパの文明と似ている点で、中国文化と異なる点である。

 

 参考文献:「天皇と原爆」西尾幹二、「アメリカと中国はどう日本を侵略するのか」西尾幹二、「同盟国アメリカに日本の戦争の意義を説く時がきた」西尾幹二

2014/08/06に公開


-シンガポールに着眼したイギリスの地政学的先見の明-(GHQ焚書図書開封 第157回)

2022-02-24 07:23:41 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第157回

-シンガポールに着眼したイギリスの地政学的先見の明-

イギリスは

 インドへの海路はイギリス~ジブラルタル~マルタ島からポートサイト~紅海~アデン~コロンボ

支那への海路はコロンボ~シンガポール(昭南島)~香港

オーストラリアへの海路はシンガポール~ダウィーン、ケープタウン~フリーマントル

南アフリカへの海路はコロンボ~モーリシャス~ケープタウン

 というように制海権(海上権)を確保した。

アフリカ東岸のマダカスカル島はフランス領であるが、セイシェル島、モーリシャス島、アミランド島及びケニアをイギリスが抑えており、実態はマダカスカル島はイギリスの包囲網の中にあった。

その他ジャワのクリスマス島、ココス島、マレーのコタバルなど海上交通の要衝を抑えていたのである。

 

1642年 蘭、タスマンがニュージランドを発見

1664年 英、蘭からニューアムステルダムを奪い、ニューヨークと改称

1688年 英、豪州に進出

1688~89年 英、名誉革命

1700~13年 スペイン継承戦役

1719年 ダニエル・デフォー『ロビンソン・クルーソー』

1726年 ジョナサン・スウィフト『ガリバー旅行記』 

1732年 英、新大陸に13植民地設立

1757年 英仏プラッシーの戦い(インド)

1763年 英、仏に勝ってカナダを占領

1769年 英、ニュージランドを占領

1770年 英、ジェームズ・クック豪州に英国旗を立てる。

1760~1830年 英、産業革命が始まる

1775~1783年 アメリカ独立戦争

1778年 英、オーストラリアのシドニーでイギリスの植民が始まる

1789年 フランス革命

1792~1815年 ナポレオン戦争

1795年 英、セイロン占領

 

 大東亜戦争前までは、アメリカは南アフリカ(ケープタウン)経由で太平洋上のジャワ、スマトラ、マレーへ、錫、ゴムの入手に出かけていた。

 『ロビンソン・クルーソー』『ガリバー旅行記』は、オーストラリアに関わる物語で、欧州の人々にオーストラリアの存在を知らしめる役割を果たした。

 日本では幕藩体制の中頃の18世紀、イギリスはフランスと戦争ばかりしていた。

 

 参考文献:「大南方地政論」小牧實繁、室賀信夫、「東亜十億人の地理」飯本信之、籠龍良明

2018/02/14に公開


-ポルトガルの『海の鎖』と大英帝国のつくった海賊の話-(GHQ焚書図書開封 第156回)

2022-02-22 20:00:45 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第156回

-ポルトガルの『海の鎖』と大英帝国のつくった海賊の話-

最初に海に出たのは西回りで大西洋からの道をスペインが、アフリカ回りで印度洋への道をポルトガルが、選び、進んだのであった。そしてオランダが次に続いた、当時、イギリスはヨーロッパでの中では後進国であった。貧困にあえいでいたこれらの国々は、生存をかけて、また宗教を普及させるため、フロンティアの拡大に猛進したのである。

 大西洋を越えたところは野蛮の地と称して、白人支配による残虐悪道が許されると言う極めて傲慢な態度をとったのである。

ポルトガルは海上封鎖(海の鎖)という手段をとって強奪・搾取する方法をあみ出した。イギリスはそれを真似て太平洋に乗り出した。

エリザベスが海賊ドレークに爵位を与えるというようにイギリス国民はもともと海賊であった。

 

イギリス史(17~19世紀)

1577年 英、ドレークの率いる船団が初めて太平洋に乗り入れした。

1581年 露、コサックがシベリア侵略に着手

1588年 英、スペイン「無敵艦隊」を破る(アルマダの海戦)

1600年 英、東インド会社設立

1602年 蘭 東インド会社設立

1607年 英、ヴァージニア植民地設立

1613年 英、日本に通商を迫る。支倉常長ローマに到着

1620年 蘭 台湾に進出

1642年 蘭、タスマンがニュージランドを発見

1664年 英、蘭からニューアムステルダムを奪い、ニューヨークと改称

1763年 英、仏に勝ってカナダを占領

1769年 英、ニュージランドを占領

1770年 英、ジェームズ・クック豪州に英国旗を立てる。

1760~1830年 英、産業革命が始まる

1775~1783年 アメリカ独立戦争

1778年 英、オーストラリアのシドニーでイギリスの植民が始まる

1789年 フランス革命

1792~1815年 ナポレオン戦争

1795年 英、セイロン占領

 

 海の自由という思想は、アルプケルケがマラッカ海峡を占領してから認知されるようになった。その考えを受け継いだのが制海権をもった海洋帝国イギリスであり、第二次世界大戦後は制空権を握った空の帝国アメリカへと変遷していった。そして現在は情報支配の時代になっている。

 500年間のマラッカ海峡は、アラビア、ポルトガル、オランダ人、イギリス、アメリカと5回覇権が変わっていった。昭和17年2月の日本軍によるシンガポール陥落でやっと、インド洋と太平洋を結ぶ海の要衝マラッカ海峡はアジア人の手に戻ってきた。

 

1770年ジェームス・クックがオーストラリアに英国の国旗を建てた後、ヨーロッパに悪行が伝わりにくいことを良いことにして、土民を殲滅するなどあくどいことをやり続けた。そして、次にオーストラリアとカナダを結ぶ太平洋上の島々の占領をおこない、海底ケーブルを敷設した。(1853年ノーフォーク、1874年フィジー、1888年ファンニング、1889年フェニックス、1892年エリス)

 後のABCD包囲網の原型が整ってきたのである。

 一方アメリカは、米西戦争に勝利した後、ハワイ~ミッドウェー~グアム~フィリッピン、アラスカ~アリューシャン列島、南方ではサモア諸島を占領し、イギリスと太平洋上で衝突することになる。

 

 第一次世界大戦時に、日本海軍は、イギリスを支援するためオーストラリアおよびニュージランドから地中海に向かうANZACの軍艦をドイツ潜水艦から護衛する役割を担った。太平洋、インド洋、大西洋と広大な海上ルートの安全を確保したのである。

 地中海ではイギリス輸送船を護衛して沈没した駆逐艦「榊」乗組員の慰霊碑が今もなおマルタ島に残っている。

 

 参考文献:「大南方地政論」小牧實繁、室賀信夫、「東亜十億人の地理」飯本信之、籠龍良明、「世界新秩序建設と地政學」小牧實繁、「世界史をつくった海賊」竹田いさみ

2018/01/31 に公開