GHQ焚書図書開封 第2回
「征野千里」ー兵士の手記 谷口勝(中野部隊上等兵)
GHQにより、昭和8年から昭和20年までの間に刊行された日本の本が国民の目から遠ざかされた。昭和8年は1月1日に満州と支那の境界の山海関で日本軍士敷地内に手榴弾が投げ込まれるという事件から始まり、3月27日には日本の国際連盟脱退、5月31日には国民政府と日本との間で塘沽停戦協定(たんくていせんきょうてい)締結、10月14日にはドイツが国際連盟脱退、12月23日には現在の今上陛下の誕生と目まぐるしく世界情勢が変化した年であった。
東京裁判では、日本から戦争をしかけたという筋書きにするために、日清、日露戦争から続いてきた日本と支那間の問題を故意に黙殺し、この時期以降の資料のうち英米に都合の悪い資料を除き、英米に都合の良い資料を裁判の証拠資料として採用している。これによって行われた東京裁判の結果により日本人の正しい歴史認識が失われた。
南京が陥落した昭和12年12月13日の2,3日前の南京進軍途中の戦場風景。突然戦争に巻き込まれた土民家族の慌てぶり。部隊退却後、残され、トーチカの中で足を鎖につながれ、鉄砲を撃ちまくる支那兵の姿は、インドにおいてイギリス兵がインド兵に対してやった行為と同じであった。民家を焼き払って遁走する支那部隊。中華門の猛撃。南京城門内の女性兵士を含むおびただしい死体の山はどうみても、支那部隊が逃走するにあたり城内中支那人を惨殺したものとしか思えなかった。無邪気に支那将校の残した黄金の指揮刀を身に着け戯れる日本兵の姿。戯れた後、指揮刀を元あった場所に戻す日本兵の律義さ。
12月17日に松井岩根大将の入城風景。12月18日には両軍の慰霊祭を実施。陥落後の15日、16日の2日間で30万人の虐殺は物理的に不可能である。軍命令書もなく、殺人特殊部隊の編成もなしに死体処理を含めた場合、1日あたり5,000人以上の殺人は不可能である。
しかも、陥落後の南京ののどかな風景写真や敗残兵との共同生活ぶりをみると、また、陥落後、南京の人口が増えている記録からも、とても虐殺があったようには思えない。虐殺があれば、避難地域から都市に戻って来ず、人口は減るはずだ。
参考文献:『GHQ焚書図書開封1 第三章』西尾幹二