GHQ焚書図書開封第129回
-200年に及ぶイギリスの介入による支那の崩壊-
支那大陸の黒船来航は、1635年のイギリス船4隻によるウェッデルの寄航であった。それまでは、葡萄牙(ポルトガル)が澳門(マカオ)での交易により独占的利益を得ていたのである。
その後、阿蘭陀との交戦もあり、イギリス貿易が復活するのは1664年になったが、海関に関わる極端な賄賂要求にイギリス商人は悩まされることになった。
貿易港広東(カントン)においては、独占的利益を侵された葡萄牙(ポルトガル)が英吉利(イギリス)の進出を妨害した。
海関税は海関監督(ホッポ)の独自裁量によって決定されており、賄賂分が圧倒的に多かった(1500両の場合、1300両は賄賂、実質の税額は200両)。1703年以降はホッポの制度がコホン(公行)制度に変わった。しかし、賄賂体質は依然として残った。
18世紀中頃になると、清国政府は排外的になり乾隆帝は禁圧令を下した。貿易港も広東と澳門(マカオ)に制限された。
その後、困った英吉利政府は、1792年、ジョージ・マカトーニー卿を派遣し、事態収拾に努めるが、乾隆帝に謁見するための「三跪九拝(三跪九叩頭)」の礼には応じなかった。そのため交渉(通商の自由、関税低減などの交渉)は決裂した。ウィリアム・アマースト大使も同じように「三跪九拝(三跪九叩頭)」に応じる気配もなかったとのことで嘉慶帝の謁見が許されなかった。
1834年にはウィリアム・ジョン・ナピールと広東総督との間にトラブルが発生し、対英ボイコットが起こった。200年に亘って英吉利と清朝は意地の張り合いを演じていたのである。ナピールの業務を継承したダヴィス・ロビンソン・エリオットの時に、とうとう堪忍袋の緒が切れ、武力によって清朝を抑えるという政策に転換した。これが、阿片戦争の原因と言われている。
阿片戦争は林則徐の過激な禁圧によって起こされたのでなく、阿片戦争を起こすことで清朝への侵略の扉をこじ開けようとした英吉利の陰謀であった。1635年のウェッデルの来航以来200年かけて虎視眈々と侵略の時期を待っていたのである。
印度を抑えた英吉利は、ベンガル地方で阿片を栽培し、清朝へ輸出した。清朝は阿片輸入により銀が流出し、支那経済、支那人の健康が破壊されることになった。銅が下落し、物価騰貴となり豊かな支那は輸入国に転落し没落の道を辿ることになった。
嘉慶帝は、阿片の禁輸令を出し、阿片の蔓延を防止しようとしたが、支那密輸商と支那官憲と英吉利商人が結託していたため一向に治まる気配はなく、支那政府が厳しく取り締まれば、取り締まるほど賄賂による利益を求め、阿片は広まる一方であった。
2017/2/15に公開