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-アンボイナ事件とオランダ東インド会社-(GHQ焚書図書開封第161回)

2022-05-07 21:48:17 | 近現代史

GHQ焚書図書開封第161回

-アンボイナ事件とオランダ東インド会社-

1607年、オランダ海軍は、ジブラルタルでスペイン海軍を破ったが、モルッカ、朝鮮、支那沖で八幡船(倭寇)に悩まされていた。

 1619年、オランダ東インド総督のヤン・ピーテルスゾーン・クーンは、ジャガタラ(バタビア、ジャカルタ)のイギリス要塞を破壊し、同時にバンダ、アンボイナ、モルッカ諸島への立ち入りを禁止した。

 1622年、オランダによる日本人が虐殺されたアンボイナ事件(イギリス人10名、日本人9名、ポルトガル人1名が処刑された)が発生。イギリスは東南アジアから撤退し、インド経営に注力するようになった。

クーンの政策は、独占、鎖国主義であり、東インド人の内部闘争を巧みに利用し、驚くべき陰険なものであった。

その後、英蘭戦争は4回続き(第1回は1652-1654年、第2回は1665-1667年、第3回は1672-1674年、第4回は1780-1784年)、4回目にオランダはイギリスに屈服した。

スペイン、ポルトガルが敗退し、オランダが台頭し、そのオランダもやがて力を失い、イギリスの支配へと変遷していったが、それぞれの国々は完全に植民地を失うことなく、第二次世界大戦まで存在し続けた。

また、当時、スマトラにはアチエ、マレー半島にはジョホール、ジャワ島にはバトゥーン、マタラ、マカッサル王国があり、モルッカ諸島にはテレナール、キドール王国、シャムにはカンボジア王国、ベトナム王国も存在していた。

 西欧人が、シンガポール、マラッカ海峡、ジャワのバタビア、マニラを抑えても、まだ点を抑えたに過ぎなかった。

これらの地域はイスラム教、ヒンズ教が根を張っており、仏教はベトナム、ラオス、カンボジアに強い力をもっていた。従って、中南米のインカ帝国、メキシコのアステカ帝国、カリブ海のキューバ、ジャマイカのように、あっという間に攻略され、先住民が奴隷とされることはなかった。

 1543年に種子島にポルトガルから鉄砲が伝来したと言われているが、それ以前から倭寇を通じて日本には鉄砲が入っており、1580年に日本が保有していた鉄砲は60万丁に達していた。日本を除く世界の総数が30万丁と言われているから世界一の軍事大国であった。

 1600年、豊後臼杵港に来たのはポルトガル船ではなく、1580年スペインから独立したオランダ船(リーフデ号、航海士ウィリアム・アダムス:三浦按針)であった。

 参考文献:「蘭印現状讀本」石澤豊、「蘭印・佛印史」大江滿雄、「白人の南洋侵略史」柴田賢一、「大南方地政論」小牧實繁、宇賀信夫

2018/03/14 に公開