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日常生活の中で思ったこと、感じたことを気の向くままに書き綴っています。

-孝の呼吸-(GHQ焚書図書開封 第180回)

2022-08-31 00:30:16 | 日記

(GHQ焚書図書開封 第180回)

―孝の呼吸―

和田豊治氏は、右の話を渋沢栄一氏から聴いたが、やはり深く感動して、自分が従来母に仕えている精神が、信州の孝行者と一致したといって、話されるのを聞くと、

 同氏の老婆は、当時87歳の高齢であったが、63歳の和田氏を、なお、赤ん坊のように、やれ、風邪にかかるな、やれ炬燵に入れのと注意されるそうだ。

 朝飯の時には、老母は氏のために、ゆで卵を細かにして、ご飯の上にかけてやられたそうで、氏はそれを喜んで食べたという。

また、晩酌をやれといわれて、和田氏が僅かづつやられると、頗る老母の機嫌が悪く、そのため、小さな徳利を買ってきて、十分に酒を入れ、老母に酌をしてもらったという。

 親は子を愛するものだから、その愛情を満足させることが何よりも肝要である。

 孝行の呼吸は実にここにある。和田氏はそれを実行したのである。

ある冬、同氏は自邸へ友達を呼んで、海豚の雑炊をふるまわれた。

そのとき、老母は氏の傍らに来て、

 「味はどうだい。」

 「大そう結構ですから、お母さんもお上がりなさい。」

 和田氏は、自分の茶碗箸諸共老母へ渡された。すると老母は嬉しそうに受取って食べ、また和田氏へ返された。氏はその残りをさっさと食べてしまわれた。

 友人達、涙して感激した。

 「なんと温かい、麗しいことではないか。」・・・6:29

 ■阿諛(おべっか)

 加州候がある夜、数多の侍臣を伴って庭園を散歩していた。候は突然何を思ったか、歩みをとどめ、暗い空を暫く見上げていたが、

 「甲斐守、あそこに一つ星があるが、汝にも見えるのだろうのう。」

と、聞いた。甲斐守は暫くして、

 「ハッ、仰せのとおり見えまする。」

 「阿波守その方にも見えるか。」

 「何処でございます。」

 「屋根の上の少し左によって・・・」

 「ハッ、いかにも見えまする。」

こうして次々と皆のものに聞くと、皆が見えるというのである。ただ一人土佐守

だけは、どうしても見えない。そして頻りにその所在を尋ねたが、どうもわから

 ないと。彼は、

 「何処でござります。私には少しも見えませぬ。」

と、云った。すると候は、

 「土佐は馬鹿である。」

この『馬鹿』は、正直の意である。もとから星は見えなかったのだ。候はす なわち、従臣の直侫を試みるために、わざと問うてみたのである。

 土佐だけは決して諂わぬ候はその馬鹿を信頼した。9:25

 ■肚の探索

ある時、秀吉の前に、家康その外諸大名が列座していたとき、秀吉が広言した。

 「およそ日本中にて、弓矢のことについては、自分に敵するものはない。自分は

一度たりとも軍に失敗したことはないぞ。」

 並みいる一同、いづれも、

 「誰が御弓矢に敵するものがござりましょう。」

 諂っていると、家康殊の外に気色ばんで、

 「上様の御意も事によりましょう。武士道の儀は、私を御前に置きながら、さよう

 の御意ご無用と存知まする。小牧にての御苦戦もあり、私の前だけには、只今の

御意も、近頃の奇怪と存じまする。」

 立ち上がって言い争った。一同ハラハラしたとき、太閤は黙々として立去った。

 面々は、家康を詰ったが、家康の言に変わりはなかった。

そこへ秀吉が戻ってきて、何のことなく、常の如くであり、少しも気にかけて

 いる風もなかった。

 新井白石が言う。

 「太閤は何のこともなく右の広言をする道理はない。これは家康の肚を試そうとしたためである。このとき家康が、秀吉の申されるとおりでありますなどと云ったならば、

 却って危ないことになったであろう。つまり秀吉の胸中に、この人は武士道

の義に於いては身の禍も何も顧みない人である故、武辺に疵をつけてまでも天下を

取ろうなどと思う人でないと思って、安堵したのであろう。」12:11

 ■才子

 徳川幕府の儒者、古賀精里は、

 「自分は所謂才子は大嫌いである。何故ならば、才子は己を恃みて、多くの家を

亡ぼし、わが身を亡ぼす者である・・・・。」

これを聞いた某は、

 「これには私も同感です。平素今日の少年才子を見るに、多くは岐路に入って、

 初志を貫くものが至って少ない。最も戒むべきは少年才子にして、政に関し、宗教に迷い、享楽に耽ることであります。」

 頼山陽もまた、

 「予を才子というものは、予を全く識らざる者なり。予をよく刻苦するという者は、

 真に予を識る者なり。」

といっている。15:30

■才倒れ

土佐の吉田東洋は名士であるが、東洋を識る諸名士の批評が、才を戒めて

 それぞれ趣を備えている。

 伊勢の斉藤拙堂は、

 「恰も名剣の鞘のないようなもので、果ては自ら傷つくるに相違ない。」

 東洋の友人松岡毅軒は、

 「東洋は才気溌剌としているが、惜しいことに徳が足らぬ。」

 水戸の藤田東湖は、直接東洋に向かって、

 「君の才気を以って、英明なる藩主の容堂公をお助けするのは、藩のために目出度いことであるが、君が能く謹慎しなければ、ただ君の不幸ばかりでなく、一藩の盛衰にも関わる。」

また東湖は、土佐の重臣に向かって、

 「東洋のような人物が容堂公を補佐するのは、まるで汗馬に鞭をかけるようなもので、甚だ危険千万である。東洋の相貌を能く観察すると、眼中に殺気を含んでいる。惜しいことには近いうちに、不慮の災難にかかるかも知れぬ。」

 間もなく東洋は刺客の手に倒れた。20:04

 

■ 猿

 印度の猟師が、猿を生け捕ろうとするには、黐を丸めて林へ行き、猿の前へ投げてやる。

 猿は何かと、片手に拾い取る。黐が粘りつくのに驚いて、別の手に取ろうとする。その手に粘りつく。あわてて、右手をかけ、左手をかけ、取ろうとするが取れず、手足もろとも粘りつかれて、遂に生け捕りになるという。

この種の黐が、現代の、殊に都会には、到る所に落ちているように思う。22:15

 

 ■倶不足語

 松平楽翁が、老中の首座となって幕政を執っていた頃、亀田鵬齋を幕府の

儒者に列しようと思って、これを招いた。

このとき、楽翁は、鵬齋の肩衣と腹の紋章が違っているのを見て、

 「先生の服装は、上下の紋章が違っておりますが、一体どうしたのです。」

すると、無頓着な鵬齋は、

 「私の着ている服は、皆、古着屋町で調えたものですから、紋章は一つ一つ違っております。

と答えた。これを聞いた謹厳な楽翁は、機嫌を損じ、とうとう彼を採用しなかった。

 鵬齋、後に人に語っていった。

 「閣老の人物は極めて小さい。ともに語るに足らぬ。」

 終生、民間に在って、自適の生活を送った。いづれが是なるか。

 

 ■着物

 鵬齋の話、もう一つ。

 一夜、他家の招待から帰ってきた鵬齋は、素裸であった。妻が尋ねた。

 「どうなさいました。」

 「溝に落ちたから、着物を脱いで帰った。」

 「なぜ着物をさげて帰りませぬ。」

 「いや、その着物たるや臭くてたまらぬので、とても持って来られなかった。」

 「それでも宅には、お召替がありませぬ。」

 「構わぬよ。人間は裸で生まれてきたのであるから、当分裸でいるのじゃ。」

 呵々大笑したという。

 鵬齋の学問文章は、群を抜いて、当時に傑出していた。松平楽翁が後園を造ったとき、人を遣わしてその記を草することを頼んだが、鵬齋は刎ねつけてしまった。

 松平と、鵬齋と、くらべて考えてみることは興が多い。

 

 ■大成の資本

 西郷隆盛の言葉にある。

 「事大小となく、正道を踏み、至誠を推し、一事の詐謀を用ゆべからず。人多く

 は、事差支ゆる時に臨み、策略を用いて、一旦その差支を通せば、時宜次第、工夫の出来きるように思へども、策略の煩いきっと生じ、事必ず敗るるものぞ。正道を以ってこれを行なへば、目前には迂遠なるようになれど、先に行けば成功は早きものなり。」

なによりも正直になりたいと思う。

 安田善次郎が青年時代、煙草入れを売った25両を資本に、日本橋人形町へ鰹節店を初めて開いたときの誓いの一つは、

 「決して嘘を云わぬこと。」

であったという。極めて平凡な正直の大道を誓ったところに、大成の資本が潜在していたのだろう。

 『正直の頭に神宿る』古い諺だが、真理は恒に変わらない。

 

 ■本心の実

 赤穂義士の堀部安兵衛、奥田孫太夫、高田郡兵衛の三人は、親交の仲だった。

 忠烈の臣と見えた郡兵衛は、しかし、事を遂げる前に逃げ出して、行方不明になった。

 本懐を達して、大石良雄など十七人が、細川家へ預けられた。そのある日、行方不明の郡兵衛のことを、堀部安兵衛が思い出して噂していると、細川家の堀内伝右衛門が、傍らに聞きながら云った。

 「その高田氏と申さるる方は、平生、何事に召し使わされても、良き奉公人よと、誉められていたことでござろう。」

そのとおりなのだ。安兵衛が、

 「まことに左様、しかし人は見かけにより申さぬものと、つくづく思い当たってござる。」

 嘆いて云うと、伝右衛門が頷いて、

 「さよう、器用人にはとかく本心の実がござらぬもの、世渡り上手は、昔も今も

主人や友人に信じられて、さて、いよいよというときには、あてにならぬものでござる。」

 最後まであてになる、正直な人間になりたいと思う。『よい天気の友人は、風と共に変わる』という諺もある。36:00

 

■ 無為正直

 参議を志して、郷里土佐から上京した近藤廣平は、商人になるんだと素志を翻して、三菱商会の店員になった。一日、岩崎弥太郎と近藤廣平との初会見が行なわれた。

 「君か、近藤というのは。」

 弥太郎の目が険しく光って、

 「なぜ礼服を着けてこない。」

と、頭ごなしに怒鳴りつけてしまった。

 「礼服を着てまいった積りですが・・・・。」

 廣平はソッと自分の服装を見回した。

 「黙れ、商人の礼服は前垂と角帯だ。」

その廣平が、二ヶ月ほどすぎたある日、社長弥太郎に呼ばれた。

 「河内へ行って綿花を仕入れてこい。」

 「ハッ」

 廣平は綿花が何であるか知らなかった。勿論その取引になると皆目見当なにもつかないのだ。

 「明朝早く立って貰いたいが、いいか。」

 「ハイ、只今からでもよろしゅうございます。用意はいつでもついております。」

きっぱりと肚を決めたのが、用意であった。

 廣平は、河内の問屋へ行き、率直に、

 「私は綿花のことも知らぬ素人です。どうか万般に亘って、ご指導を賜りたい。」

 辞を低く熱誠を込めて取り入り、赤心を移して他の肺腑に置く、といった態度に

出た。

 問屋の主人は、ポンと煙管を叩いて膝を乗り出した。

 「ようごわす。承知しました。立派に男一匹、誰にも退けは取りません。私もこれを御縁に、今後のお取引を願いましょう。」

と、快諾した。その結果は、弥太郎も驚くほどの成績を収めて帰京した。

 弥太郎は、廣平の報告を聞き取ると、

 「うむ、素人離れがしている成績だ。どこでそのコツを覚えたのだ。」

 「いいえ、私は何も存じません。みんな問屋の主人に教えて貰ったのです。」

 廣平は、逐一自分の行方を話し、その功を問屋の主人に帰した。

 「うむ、そこだ。」

 弥太郎、はじめてニッコリして、

その正直がなければ、人間は大成せん。小細工は駄目だ。」

と、豪快に云った。弥太郎は、廣平の明智を買わず、その正直を買った

才は剃刀の刃だ。鋭利だがすぐこぼれる。

 大事は廣平のそれのように、無為の正直からでなければ、成就するものではない。

 

 ■下地

 「今の人間は、才があれば事業は心のままに出来るものと思っているが、才にま

 かせてすることは、危なくて見ていられないものだ。下地があってこそ、働きが出来て

 いくものである。」

 西郷隆盛体験の言葉である。

さる石屋が云った。

 「同じような庭石が、二つ並べて置いてあるが、右の方のは、地面の下に一寸くらいしか

入っていないが、左の方のはずっと深く二間ほど入っている。それで地面の

上に見えている所は、両方とも同じである。これを知らぬ人に問うてみた。

 『どちらの方をとるか』その人じっと睨んでいたが、『こちらがなんとなくいいぞ』と云った。それは根の深い方の石であった。なんとなくいいぞという所に、

つまり云うに云えない味があるのだろう。」

かくれている所に、下地を大きく深くつくりたいものだ。

 

■ 本分

 吉田大蔵は、弓術を以って加州候に仕えていた。一日、加州候は、七八名の大名を招いて

饗宴を張った。

 折りしも数行の過雁に、話が弾んでくると、加州候は、吉田に命じて空の雁を射させた。

 「ハッ」と答えた吉田、暫く心を鎮めていたが、サッと放す初矢、二矢、舞ひつつ雁は

落ちてきた。満座は喝采して、

 「さすがは加州候、よき家来を持たれる。」

と、ほめちぎった。

 後刻、客が散じてから吉田は伺候し、永の暇を請うた。候は驚き、暫く

考えていたが、名君である。

 「予が誤っていた。以来断じてあのようなことはさせぬ。今回だけは思いとどまってくれ。」

と、深く謝して、吉田をとどめさせた。

すべて侍が武を磨き、仕を求めるのは、戦場に臨んで君のために尽くそうがためである。

それを饗宴の慰めのために使われて、若し仕損じたら、自分は割腹、

 主君は恥辱を受けねばならぬ。

そんな慰みに武を使うのは、愚の骨頂である。

 吉田は本分を忘れぬ男だった。

 

■学問

 長州の儒者、南部伯民は常に門弟に諭していった。

 「学問は髪を梳くようなものである。髪を梳くには、初めは粗い櫛で梳き、それ

 から次第に歯の細かな櫛を用いれば、容易に乱髪を整理することが出来る。学問

もまたかくの如く、まづ第一鋼常倫理の何物であるかを研磨するば、そのち妙な

意味は自ら明瞭となるであろう。」

 「学問には順序がある。あなたが古事記を研究しようとなさるには、ぜひ万葉集の

研究からはじめなくてはなりません。また学問は根競べです。あせらず、気どらず、うはつかず、こつこつと築き上げて行くべきです。」

 諄々と説いたのは加茂真馬淵、相手は少壮学者の本居宣長、伊勢松坂の一夜のことである。53:00

 

 ■愚極

 伊藤仁斎の学説が、世に行なわれるのを見て、室鳩巣、荻生徂徠、大高芝山、米田操軒など、時の学者が、四方から攻撃した。

 仁斎の門弟達が憤慨して、芝山の著『適従録』を仁斎の前へ持参すると、

 「先生、これを大いに反撃して下さい。先生と全く反対の説を立てております。

 謗られて黙って折られる先生を、世間では屈服したかのように云っております。

このまま放っておかれるお考えならば、私どもが代わって、一言のもとにとりひしいでご覧に入れます。」

 仁斎、笑って

「彼の説が真ならば益友だ。我が説が真ならば、彼も悟るときがあろう。彼を謗り

我をたてるために、争うなどは、愚の極みである。」

 遂に争わず、人間の面目を全うした。

 参考文献:「日本的人間」山中峯太郎

 公開:2018/11/21



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