GHQ焚書図書開封第170回
-フィリピン独立の夢を奪ったアメリカ帝国主義序幕-
フィリピン傀儡政府とスペイン(ビアク・ナ・パト条約の反故)の詐術に遭い、香港に亡命していたアギナルドは、その後、米西戦争で勝利し、海上はアメリカの支配下にあったフィリピンに戻り、敗北して弱体化したスペイン陸軍を駆逐するためアメリカ海軍に協力するが、今度は、フィリピンを占領したアメリカ(独立の約束の反故)の詐術に引っかかり、反旗を翻すも、やがて米軍にとらえらた。その同志であるリカルテなどは逃亡生活を続け最後は日本に亡命した。当時、アジアの独立の志士たちは、日本を頼り、日本に亡命する例が多かった。
アギナルドによるスペインからの独立宣言(1898.6.12第一共和国)、その後、スペインを倒したアメリカによる再植民地化、大東亜戦争中における日本軍の援助によるアメリカからの独立(1943.10.14第二共和国)、日本の敗戦宣言によるアメリカのフィリピン再植民地化、アメリカからの独立(1946.7.4第三共和国)という経緯から、アメリカがフィリピンを独立させたと理解している人が多いが、植民地を解放し、一番最初にフィリピンを独立させたのは日本である。
「フィリッピンの研究」によると、フィリッピン人は、野蛮生活の痕跡はなくなったが、中世期式羅馬政教文化の賜物の従順さを身に着けているが、独創の精神の乏しさと主教的頑迷さは如何ともしがたく、文明人の特色である独創の精神、勤労の趣味、先見の明及び堅忍不抜の精神に欠けていると指摘している。
大東亜戦争が起こるまでの間に、日米は、朝鮮半島の統治は日本、フィリピンの統治はアメリカという交換協定を結んでいた。当時、アメリカには孤立主義者と帝国主義者(拡張主義者)が対立していたが、帝国主義者が米西戦争を推進した。帝国主義者が中心となってフィリピンのマニラ急襲した時、マッキンレー大統領はそのことを知らなかった。当然アメリカ国民もフィリピンがどこにあるかも知らず、無関心だった。そのため、帝国主義者は、自分たちの行った行動を正当化するために、布哇の後ろにはフィリピンという敵がいるとして、フィリピンを侵略し、その後はフィリピンの後ろには台湾(日本)という敵の脅威があると言って、孤立主義者や世論を論破していた。
フィリピンの領有に積極的でなかったマッキンレーが、領有へと動いたのは、ドイツがフィリピン占領の野心をもっているとのイギリスのアドバイスによるものであった。
日本が、国際連盟の委任統治をしていた赤道の北側にある北マリアナ、パラオ、マーシャル諸島などは、スペインからドイツが買い取ったドイツ領土であった。
「戦いに あまたの人の 失せしとふ 島緑にて 海によこたふ」(平成28年宮内庁歌会始より)
(「ペリリューの戦い」において、日本軍は11,000名中10,695名戦死、米軍は28,000名中10,786名戦死した、2015年4月8日~9日にかけて、今上陛下が慰霊訪問。)
第一次世界大戦時にイギリスの要請を受けてANZACの護衛を引き受けた日本海軍の巡洋艦「伊吹」は、オーストラリア、ニュージランドの輸送船団の安全航行に貢献した、更に、日本海軍は駆逐艦隊を地中海にも派遣した。これら、一連の戦いで亡くなった78名は、現在マルタ島のイギリス海軍墓地に埋葬されている。
”日露戦争は、英米と露西亜の代理戦争だった。”
※阿弗利加・亜弗利加〈アフリカ〉、土耳古(トルコ)、白耳義(ベルギー)、布哇(ハワイ)仏蘭西〈フランス〉、波蘭(ポーランド)、露西亜(ロシア)、独逸(ドイツ)、欧羅巴(ヨーロッパ)、拉丁亜米利加(ラテンアメリカ)、英吉利(イギリス)、和蘭(オランダ)、呂栄(ルソン)、比律賓(フィリッピン)、葡萄牙(ポルトガル)、西班牙(スペイン)
参考文献:「フィリッピンの研究」佐藤秀男、「ザ・ロスチャイルド」林千勝 、「国難の正体」馬渕睦夫、「知ってはいけない 現代史の正体」馬渕睦夫
2018/07/18 19:00に公開
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