俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

治療と治癒

2008-05-24 15:03:20 | Weblog
 果たして治療は可能なのだろうか?治療と思っていることは実際には治癒の補助でしかないのではなかろうか?
 傷口や骨折は接着剤でくっつける訳ではなく自然治癒力に頼っている。自然治癒力が働かなければ傷口は開いたままだし骨は折れたままだ。
 風邪を治療する薬さえ無い。解熱などの対症療法があるだけなので快癒するためには自然治癒力に頼るしかない。
 壊死した手足やガンに冒された場所を切り取ることはできる。しかしそれは機能が悪化した部分を切り捨てるだけだ。回復させる訳ではない。
 精神病に至ってはもっと頼りない。抗鬱剤は一時的に鬱状態を緩和する効果しか無い。重度の統合失調症(精神分裂病)は治療不可能だ。性欲過多の男の性犯罪者に対しては「切り取る」以外に抜本的対策は無いのではなかろうか。頭を切り取る訳には行かないので、重度の精神障害に対して何ができるだろうか。
 肉体の治療さえできない現代文明に精神の治療など期待しても無駄だ。もし精神の治療が可能なら死刑制度は必要なかろう。

無限と連続

2008-05-24 14:50:04 | Weblog
 1cmの線分上には無数の点の存在を想定できる。しかし無数の点が存在するからと言ってそこを通過するために無限の時間が必要な訳ではない。秒速1cmなら1秒で、歩く早さに匹敵する秒速1mなら1/100秒で通過できる。
 もしこの無数の点が散在するならその無数の点を辿るためには無限の時間が必要だろう。
 黒から白の間には無限のグラデーションがある。この無限のグレーを1つずつ表示することは不可能だ。しかし光学的に黒から白へのグラデーションを作れば無限の筈のグレーを表示できる。
 非連続の中で無数を表示することはできないが、連続の中でなら無数を表示することができる。

本能が壊れた動物(2)

2008-05-24 14:39:58 | Weblog
 2月26日付けの「本能が壊れた動物」にも書いたとおり、人間は本能が壊れているからこそ「自由」が獲得できると私は考えている。
 この考え方は「人間は本能が壊れた猿」をスローガンとする岸田秀氏とは大きく異なる。岸田氏は本能が壊れた人間は本能の代替物として共同幻想に頼らざるを得ないと考えている。しかし共同幻想の究極の形態は宗教であり、こんなマヤカシに頼りたくないということが私の基本スタンスだ。
 私は論理と慈悲を信じている。共同幻想などに頼らなくても、事実に基づいた平和な共同社会が実現できると考えている。
 詭弁を排除すれば論理は非常に便利で普遍的なツールだ。正しい論理を身に付ければ正しい思索と正確なコミュニケーションが可能だ。
 慈悲や思いやりも人間に普遍的な能力だ。慈悲を欠いた人間が存在することはこのことの反証にはならない。壊れたテレビがあってもテレビの存在が否定される訳ではない。壊れたテレビも壊れた人間も例外にすぎない。
 人間には論理や慈悲を理解する能力が先天的に備わっている。但しこの能力は「可能性」として備わっており、育むことが必要だ。育まないと幻想に頼ることになってしまう。