俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

嗜好

2008-06-10 16:55:32 | Weblog
 私は固い食べ物が好きだ。固い煎餅や野菜だけではなく噛み切れないほど固いアメリカンステーキや固い鯨肉も好きだ。
 ところがある日突然固い食べ物が嫌いになった。なぜか歯茎が腫れて固い物を噛むと痛くなったからだ。この痛みは数日後には治まった。痛みが軽くなったのか痛みに慣れただけなのかよく分からないが、痛みが気にならなくなると元どおり固い食べ物が好きになった。
 20歳頃まで私は甘党だった。好きな菓子は砂糖の塊のようなカリントウだった。今では甘い物が大嫌いだ。砂糖の匂いは吐き気を催させる。
 同じ個人でもこんなに嗜好が変わるのだから、神経系統が異なる他人が違った嗜好を持つのは当然だろう。

海洋危険動物

2008-06-10 16:47:24 | Weblog
 海で泳ぐ時、私は3つの動物を恐れている。鮫と海蛇とクラゲだ。
 鮫にはグァムの沖合いで出会った。小さな鮫だった。一瞬ちょっかいを出してみようかと思ったがすぐに考えを改めた。水中では鮫のほうが圧倒的に早い。攻撃されたら防ぐ手立ては全く無い。ましてお父さんが傍にいたらということを想像して一目散に逃げた。
 海蛇には沖縄で遭遇した。宮古島では何度も出会った。沖縄本島でも大勢が泳ぐビーチで見た。水遊びをする観光客の足元を海蛇が泳いでいた。ゴーグルを使う私だけがそのことに気付いて逃げた。
 クラゲには毎度悩まされている。刺されると蜂や蟻に刺されたような水膨れができる。クラゲは半透明で日差しが強ければなんとか見えるが曇ると全く見えなくなる。そのため昼間の晴れた時間しか海には入らない。しかも肩まで届くゴム手袋をして、前方に充分注意ができ障害物を取り除ける平泳ぎだけで泳ぐ。
 海には危険な動物が沢山いる。プールには危険な動物はいないが熱帯魚もいない。「無」よりは「楽」と「害」がある熱帯の海が好きだ。

事実と価値(2)

2008-06-10 16:33:00 | Weblog
 哲学では事実命題と価値命題は厳密に区別されているが、日本人はこの両者を混同し易い。日本語の「正しい」という言葉にはcorrect(正確な)という意味とright(正義の)という両方の意味があるからすぐに混同されてしまう。前者は論理学の、後者は倫理学の主題だ。
 人が死ぬとか老化するとか病気に罹るとかいったことは事実だ。私はこれらを事実として認める。しかしこれらを「良いこと」だと主張するつもりは毛頭無い。
 不老不死は妄想に過ぎないが死や老化を遅らせることは可能だ。不可能なことを求めることは無意味だが改善することはできる。死なないということは不可能でも健康な状態で長生きすることは可能だ。
 多分私は現実主義者だ。人は病気もするし老化もするしいずれは死ぬ。それらを事実として認めたうえで、その事実に目一杯抵抗する以外に選択肢は無い。
 好ましくないことであろうと事実は事実として認めたうえで可能なことを模索することが唯一可能な生き方でありそれ以外の対応は幻想主義だと敢えて決め付けたい。
 繰り返すが「事実」は「良いこと」ではない。不条理だらけだ。事実を「神の意志」という虚構を使って無条件に肯定しようとする宗教家の詭弁に対しては腹を立てざるを得ない。

肺ガン疑惑

2008-06-10 16:15:18 | Weblog
 職場の定期健康診断で「肺ガンの疑い」として再検査および再々検査を命じられた。結果としては「肺ガンではない」ということだったが、それまでは黒に近いグレーの位置付けだった。
 「肺ガンの疑い」という言葉を私は「明日は雨」という言葉と同じように坦々と受け入れた。
 ガンは以前のような不治の病ではないが死ぬ可能性の高い病気だ。それにも関わらず死への恐怖は全く感じなかった。
 郵便物を病院に転送せねばならないとかどんな金庫を買おうかとかいったくだらないことに私の意識は集中した。
 そればかりかこれを私はジョークにして楽しんだ。「近々休暇を取るかも知れない」と言って相手が理由を問うと「肺ガンらしい」と言って笑った。当然相手はジョークと思って笑った。あるいは来月の予定を聞かれて「肺ガンで入院しているかも知れない」と笑って答えたりしていた。
 死ぬことは誰にでもいずれは訪れる。それが多少早まるだけのことだ。フルマラソンのつもりで参加していたレースがハーフマラソンになるかも知れないという思いだった。