俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

母性

2015-11-24 09:44:14 | Weblog
 人間は本能が壊れた動物だ。しかし本能が壊れているからこそ自由であり人間であることができる。もし猿と同じくらい本能が残っていれば猿になる。
 とは言え、本能が全く壊れて白紙(タブラ・ラサ)として生まれる訳ではない。具体性を持たない「可能性」として様々な性質が先天的に備わっている。生存欲、性欲、群居欲など無数の欲求が潜在している。
 人類は男女が別の方向に進化したと私は考える。例えば、男性は競争的で女性は協調的だ。このことが種の繁栄に役立った。競争的であれば種族外あるいは集団外競争において有利であり、協調的であれば種族内あるいは集団内の融和に役立つ。進化論の用語を使えば前者は種族外淘汰、後者が種族内淘汰に対応する。競争力も協調力も必要だが1つの個体が両者を満たすことは難しいから男女に分かれて進化したのだと私は考える。
 しかし人類の本能は壊れている。壊れた本能を文化によって補完しなければ動物以下の獣に堕する。
 哺乳類であるにも拘わらず人類のメスの母性本能は半分以上破壊されている。それでもオスよりは乳児の心を理解できる。それが可能なのは本能が少しだけ残っているからだ。
 愛情や友情は半分破壊された群居本能の残像だろう。元々群居動物であった人類にとって群居は好ましく、群居を快適にするため感情として愛情や友情への欲求があるのだと思う。これが社会秩序の維持のためにも役立つ。
 しかし愛情や友情が本能として備わっている訳ではない。その可能性だけが備わっている。この能力は文化の中で育成されねばならない。同様に母性愛も本能ではない。あくまで可能性として備わっているに過ぎない。これを本能だと思い込んでいるから様々な問題が生じる。
 最近児童虐待の報道が多い。こんなことが起こるのは母性愛を育てないからだ。母性愛を本能だと思い込んでいるから壊れた本能を未熟なままで放置している。これは戦後教育の不備だろう。感情を育てることを怠っているからだ。学校でも家庭でも感情を育てなければそんな大人になり、そんな大人が次世代を更に酷い大人にする。
 無感情な子供を作ることは意外と易しいらしい。テレビ漬けにするだけで良い。子供の反応を無視するテレビとの関係しか無ければ、反応することが無意味であると学習して反応しなくなる。環境を操作するだけで人間が怪物に化けてしまう。
 動物の脳には本能というソフトが予め内蔵されているが人類の脳はソフトを備えない高性能コンピュータのようなものだ。ソフトは育成の過程で初めてインストールされる。人は文化の中で育てなければ動物以下になる。壊れた本能を壊れたままで放置すれば獣になり、育成されて初めて人間になる。ボーボワール氏の有名な言葉をもじれば「人は人として生まれない。人になる」ということだ。

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