俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

描写

2015-12-17 10:18:40 | Weblog
 あるがままに描いても似顔絵にはならない。その人の特徴を強調して初めて似顔絵になる。絵にはデフォルメが必要だ。デフォルメによって本物よりも本物らしくなる。
 漫画の場合、世間一般に通用している常識を踏襲せねばならない。あるいは漫画界独特の約束事もある。誰の絵であっても顔は大き目で特に目は大きく描かれる。
 女性を描く場合、バストをどう描くかが漫画家にとって悩みの種だろう。標準的なCカップで書いても「性を強調している」と因縁を付けられかねないからだ。だからと言って全員をAカップに描けばこれも不自然極まりない。
 ウエストやヒップをどう描くべきかも難しい。どう描いても「性を強調している」という批判を免れられない。
 こんな事情があるから性を意識させない漫画を描くためには中年以上の女性と子供しか登場させられないということになってしまう。これでは表現の自由を損なう。
 ヒロインはやはりバストとヒップは大きくウエストは細く描くべきだろう。これは女性読者を主な対象とする少女漫画でも同じことだ。魅力的な女性を描こうとすれば性的魅力を持たせねばならない。これは当然、性を強調した絵になる。
 「ゆるきゃら」と呼ばれるキャラクターが氾濫しているのはこんな事情の裏返しだ。まともな人間をキャラクターにしようとすれば性的魅力を伴わねばならないから、人間離れしたキャラクターに頼らざるを得ない。「くまもん」や「ふなっしー」などのように動物や妖怪しかキャラクターにできない。せっかく世界に誇れる漫画やアニメといったサブカルチャーがありながらこれらを有効に活用できないとは困ったことだ。キャラクターを、性的かどうかでしか評価できない人こそ性意識過剰なのではないだろうか。
 「性の商品化許すまじ」と主張する人々がいずれは美術まで否定するようになるのではないだろうか。女性を描く美術は必ず女性の性的魅力を強調している。彼らの価値観に従うならルノアールもゴヤもダリもあるいは竹久夢二の美人画でさえ総て猥褻物にされてしまう。性的魅力の描写を禁じようとする人々が文化を破壊する。

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