俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

哲学の効能

2015-10-28 10:32:16 | Weblog
 哲学は本来、役に立たない学問だ。生きることの意味とか善悪の基準とかいったどうでも良いことを問う。関心の無い人にとってはこれほどくだらない暇潰しは無かろう。ところが哲学はこんな難問を解決するために高度な論理性を要求する。これが非常に役に立つ。日常生活では因果性と相関性は殆んど区別されないし、カラスは黒いに決まっている。哲学を学んだ人はこれらを疑う。すると常識がいかにデタラメなのかが分かる。
 「我思う、故に我あり(コギト・エルゴ・スム)」を理解する必要は無いが、「対偶は常に正しく、逆や裏は必ずしも正しくない」ということぐらいは知っておいたほうが良い。巷に溢れるくだらない詭弁は大半がこのことだけで否定できる。
 私が主に攻撃するのはそんな常識だ。ウィルス性疾患の治療は可能か、大日本帝国は極悪の社会だったのか、科学の中にオカルトが混じっていないか、報道は公正か、こういったことに対して哲学的思考法は大いに役立つ。
 哲学を通して学んだ教訓も有効だ。私がカントの「純粋理性批判」を絶賛するのは、この本によって理性の僭越について知らされたからだ。知覚に依存する理性には世界の真の姿を知ることはできない、という事実は重い。乏しいデータから性急に結論を出すこと、主観的な印象に基づく判断、こういった誤りがしばしば生じるのは知恵に対する過信があるからだ。知恵を過信するからこそ、できないことをできると言い、分からないことを分かると言う。老人病とされている病気の大半が老化現象であって治らない。人造物である橋やビルがいつ壊れるかさえ分からないのに地震や噴火がいつ起こるかなど分かる筈が無い。
 天気予報も予報が困難な状況がある。私は天気図や雲の動きなどに基づいて自分で予想をしているからよく分かることなのだが、春と秋の季節の変わり目の予報は難しい。それは他の季節とは違って大気のバランスによって天気が決まるからだ。普段の天気は西から東へと移動するが、季節の変わり目の天気は寒気団と暖気団の力関係によって決まる。予報が難しい時に普段と同じように予報をしていれば外れる確率が高くなる。降水確率だけではなく予報の信憑性もランク付けして発表したほうが良かろう。
 できることとできないことを識別して、できることに全力を注ぐべきだ。永久機関や不老不死およびそれに類する研究など無駄にしかならない。理想を追及することを否定しないが、それが叶わない妄想であれば理想家ではなくドン・キホーテのような狂人になってしまう。

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