俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

ゼロ・サム

2014-09-30 09:41:58 | Weblog
 資源はどう分配されているだろうか。誰の所有物でもなければ、早い者勝ちになる。公海の魚であれば獲った人の物になるし、共同漁業であれば予め決めたルールに基づいて分配される。誰かの所有物であれば金銭で置き換えられる。供給者の意向に沿った金額を支払う人がそれを得る。
 分配は必ず不公平を招く。誰かが多く取れば他の人の取り分は少なくなる。早い者勝ちであれば資源は必ず枯渇するし、金銭による購入であれば貧富の差が問題になる。前者については漁獲制限が、後者については価格統制が行われることがある。しかし当初は誰もが安く買えるために行われた米価の統制が世界一高い米価を招いたのは何とも皮肉な話だ。
 こういった問題が発生するのは有限な資源を奪い合うからだ。戦争も大半が資源と領土を巡る争いだ。国家レベルでさえ殺し合いになるのだから個人レベルで解決することは困難だ。
 無限に増やすことは不可能だが、協力すれば資源が増やせるのなら奪い合いを回避できる。そんな夢を実現したのが農業だ。今10でしかない物が1年後には100に増えるのであれば、今分配するよりも協力して育成してから分配したほうが得だと誰もが考える。食物の増殖という大変革が人の絆を作った。
 タイには「豚は太らせてから食え」という諺があるらしい。日本人も野生の子豚を捕まえたら、すぐには食べずいくらか育ててから料理するだろう。
 高度経済成長期の日本企業にも同じような思いがあった。協力して企業を育てれば自分達の収入も増えると本気で考えていた。だから労使協調も可能だった。
 かつて原子力が「夢のエネルギー」と考えられたのは枯渇しないエネルギーだからだ。核分裂と核融合を繰り返せばエネルギーは減らず逆に増え続ける。燃え尽きない太陽を人工的に作れると考えられた。増殖炉とはそういう意味だ。だから原子力とは資源争いを防ぐ「平和のための」エネルギーになり得る筈だった。しかしそれは文字通り「夢のエネルギー」に終わった。
 ゼロ・サムの社会は奪い合いでしか無い。誰かが多くを取れば他の人は貧しくなる。己の足を食べるタコのような縮小均衡ではなく成長戦略が求められる。現在あるものを分配するのではなくそれを育ててから分配すれば連帯も生まれる。
 この250年間の人類の繁栄は化石燃料に依存している。しかしこれは数億年掛けて地球が蓄えたエネルギーを数百年で蕩尽する使い捨て経済だ。原子力が夢に終わったのだからそれに代わる枯渇しない資源が必要だ。農業のように増やせる資源は決して夢ではなかろう。

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