俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

一期一会

2014-04-22 09:44:38 | Weblog
 埼玉県で、女教師が息子の高校の入学式に参列するために、自分が担任である高校の入学式を欠席したそうだ。変な教師はどこにでもいるものだと軽く考えていたが、20日付けの産経新聞の記事を見て驚いた。埼玉県教委に寄せられた意見は、校長らへの批判48件(33%)、教員への批判34件(23%)、教員への理解65件(44%)とのことだ。日本人は無責任に対してこんなに甘くなったのかと呆れた。2つの問題点に絞って指摘する。
 ①主役と観客・・・入学式の主役は生徒と教師だ。父母の役割は観客に過ぎない。私個人を例にすれば小学校から大学まで入学式と卒業式は4回ずつあったが、親が参列したのは小学校の入学式だけだ。これは登下校の送迎を兼ねていた。それ以外については、勝手に見に来たことはあったかも知れないが不参加だ。親の参列は子供にとってはどうでも良いことだろう。しかし担任の教師は違う、主役の一人だ。この職務を放棄することは無責任だ。これは他所の芝居を見るために舞台を休む俳優や、メジャーリーグの試合のテレビ観戦のために欠場する野球選手のようなものだ。
 ②デメリット総量・・・40人を受け持つ担任教師が一人の息子を優先したことを数で比較しようとは思わない。比較すべきなのは数だけではない、質も考慮すべきだ。40人の葬式よりも親族の葬式を優先することは当然認められる。問題とすべきなのはこのことによる影響だ。第一印象の与える影響は大きい。第一印象が悪ければその後挽回することはかなり難しい。このことによりたった一人にでも決定的な悪印象を与えてしまえば取り返しの付かないことになる。息子の高校の入学式に参列しないだけでヒビが入るほど脆弱な親子関係ではないだろうしその埋め合わせの機会は何度でもあるだろう。しかし新しい生徒との信頼関係はそうではない。このことのために完全に断絶するかも知れない。そんなことまで考慮した上で欠席したのだろうか。この教師は生徒との信頼関係の重要性を理解していない。このことだけでも教師として失格だ。
 常在戦場という言葉がある。これは決して「常に戦え」という意味ではなく「戦場にいるような緊張感を持続せよ」という意味だ。平和ボケした現代の日本人にこんな自覚が困難であれば、せめて一期一会という意識を持って欲しいと思う。
 私は自分をかなり極端な個人主義者だと思っている。だからこそ他者の権利や感情を軽視するエゴイストには強い不快感を持つ。個人主義とは自己の権利を重視するのと同様に他者の権利も重視する思想だ。

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