医療の貢献は偏っている。感染症と栄養障害に関しては素晴らしい実績を残しているが、それ以外については余り成功していない。虫垂炎などの外科手術ぐらいではないだろうか。
成功している感染症においても可能なことは限られている。細菌や寄生虫であれば生物だから殺すことができるが、ウィルスは生物ではないから殺せない。だからウィルス性感染症を治療することは難しい。風邪でさえ治療できないのが現状だ。有効なのは主に予防だ。1つはワクチンの予防接種でありこれによって天然痘は撲滅された。もう1つは感染の防止、つまり隔離だ。
こう考えれば医療に可能なことが極めて限られていることが分かる。治療できないからこそ予防や隔離に頼らざるを得ない。ワクチンにしても実は人体に備わった免疫力に頼っている。
怪我の治療も自然治癒力が頼りだ。傷を縫合しても最終的に接合するのは自然治癒力だ。骨折した場合、正しい位置に戻すことしかできず骨の復元は自然治癒力に依存している。
栄養障害は治療できる。ビタミンやミネラルなどの不足分を補えば欠乏症は治る。しかし実際に治療している訳ではなく、体が勝手に栄養素を吸収して自力で治すだけだ。
留意すべきことは、医療が有効なのは正しい原因に対処した時だけだということだ。病原体を防ぐこと、不足した栄養素を補給すること、傷口を元の位置に戻すこと、これらは原因が分かっているからあるべき姿を設定できる。原因不明のままでの対症療法とは質的に異なる。
癌や生活習慣病や精神病などは原因が解明されていない。だから実際には治療不可能な筈だ。それを治療できると考えるのは思い上がりだ。患者は溺れる者と同様、藁をもつかもうとする。医師が提供できるのはせいぜい藁か時には毒蛇だ。藁の代わりに毒蛇を与えられた患者こそ災難だ。これが医原病だ。
医療の一部は人類に貢献した。しかし医療に対する過信と医療の思い上がりは人類に災いをもたらしている。医療に可能なことと不可能なこととを峻別して、可能なことに徹するべきだ。実際には風邪さえ治せないのに患者に有害物を処方して却って悪化させている。原因が分からないままでの癌や精神病に対するその場凌ぎの医療紛い行為は瀉血のようなものであり有害無益だ。できないことはできないと認める必要がある。現時点で医療に可能なことは自然治癒力の支援と補完だろう。
カントの哲学史上での最大の貢献は理性の限界を明示したことだ。同様に医療の限界を知ることによって医療の改善が期待できる。
成功している感染症においても可能なことは限られている。細菌や寄生虫であれば生物だから殺すことができるが、ウィルスは生物ではないから殺せない。だからウィルス性感染症を治療することは難しい。風邪でさえ治療できないのが現状だ。有効なのは主に予防だ。1つはワクチンの予防接種でありこれによって天然痘は撲滅された。もう1つは感染の防止、つまり隔離だ。
こう考えれば医療に可能なことが極めて限られていることが分かる。治療できないからこそ予防や隔離に頼らざるを得ない。ワクチンにしても実は人体に備わった免疫力に頼っている。
怪我の治療も自然治癒力が頼りだ。傷を縫合しても最終的に接合するのは自然治癒力だ。骨折した場合、正しい位置に戻すことしかできず骨の復元は自然治癒力に依存している。
栄養障害は治療できる。ビタミンやミネラルなどの不足分を補えば欠乏症は治る。しかし実際に治療している訳ではなく、体が勝手に栄養素を吸収して自力で治すだけだ。
留意すべきことは、医療が有効なのは正しい原因に対処した時だけだということだ。病原体を防ぐこと、不足した栄養素を補給すること、傷口を元の位置に戻すこと、これらは原因が分かっているからあるべき姿を設定できる。原因不明のままでの対症療法とは質的に異なる。
癌や生活習慣病や精神病などは原因が解明されていない。だから実際には治療不可能な筈だ。それを治療できると考えるのは思い上がりだ。患者は溺れる者と同様、藁をもつかもうとする。医師が提供できるのはせいぜい藁か時には毒蛇だ。藁の代わりに毒蛇を与えられた患者こそ災難だ。これが医原病だ。
医療の一部は人類に貢献した。しかし医療に対する過信と医療の思い上がりは人類に災いをもたらしている。医療に可能なことと不可能なこととを峻別して、可能なことに徹するべきだ。実際には風邪さえ治せないのに患者に有害物を処方して却って悪化させている。原因が分からないままでの癌や精神病に対するその場凌ぎの医療紛い行為は瀉血のようなものであり有害無益だ。できないことはできないと認める必要がある。現時点で医療に可能なことは自然治癒力の支援と補完だろう。
カントの哲学史上での最大の貢献は理性の限界を明示したことだ。同様に医療の限界を知ることによって医療の改善が期待できる。
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