「雀の学校」の歌詞に違和感を覚えないだろうか。「♪ちいちいぱっぱちいぱっぱ 雀の学校の先生は ムチを振り振りちいぱっぱ♪」。「ちいちいぱっぱ」は雀の囀りを表現しているのだろう。しかし猛獣の調教師ではあるまいし、なぜ教師が鞭を振り回すのだろうか。戦前の教育が幾ら威圧的であっても学校で鞭を使っていたとは思えない。
まず考えられるのは「愛の鞭」だ。しかし全体の流れと整合しないし、根性を養う場ではない和気藹々の授業に愛の鞭は似つかわしくない。
本を読んでいてたまたま「教鞭を執る」という表現に出会って疑問は一気に氷解した。ムチとは教鞭のことだろう。現代風に言えば指示棒だ。多分、教師は教鞭をタクトのように振って「さあ、声を合わせて囀りましょう」と言っているのだろう。
考えれば奇妙な話だ。この歌を初めて知ってから60年近く、意味も分からないまま歌っていたということだ。歌うだけならまだマシだ。意味を理解せずに語っていることが余りにも多いのではないだろうか。
初期の戦後民主主義教育では「封建的」という言葉が非常に強力な否定語だった。つまり戦前の封建的な価値観を捨てて民主的になれ、という意味で使われていた。民主的が善で封建的が悪という単純な価値評価だった。
今改めて「民主的」が問われるべきではないだろうか。中でも最悪なのは多数決万能主義だ。最近、住民投票によって解決すべきだ、という主張が目立つ。私にはこれは「多数者のために少数者を犠牲にせよ」という主張のようにしか思えない。
もし市内のどこかに産業廃棄物処理場を作らねばならない時に市民投票によって決めれば、候補地の近隣に住む少数の人がどんなに強硬に反対しても、それ以外の人の賛成多数によって決められてしまうだろう。こんな手続きは全く民主的ではない。NIMBY(Not In My Back-Yard)は集団と集団との利害対決だ。逆説的な言い方だが、住民つまり当事者は決定に関与すべきではない。被害者と加害者だけによる裁判はリンチのようなものだ。中立の立場の裁判官がいて初めて裁判が成立する。裁判官のような、直接的な利害関係の無い第三者に決定を委ねるべきではないだろうか。
「民意を問え」という掛け声の元でとんでもないことが決定されることは決して少なくない。ヒットラーがドイツ国民の圧倒的な支持を得て総統に選ばれたという悪しき歴史的教訓を忘れるべきではない。
まず考えられるのは「愛の鞭」だ。しかし全体の流れと整合しないし、根性を養う場ではない和気藹々の授業に愛の鞭は似つかわしくない。
本を読んでいてたまたま「教鞭を執る」という表現に出会って疑問は一気に氷解した。ムチとは教鞭のことだろう。現代風に言えば指示棒だ。多分、教師は教鞭をタクトのように振って「さあ、声を合わせて囀りましょう」と言っているのだろう。
考えれば奇妙な話だ。この歌を初めて知ってから60年近く、意味も分からないまま歌っていたということだ。歌うだけならまだマシだ。意味を理解せずに語っていることが余りにも多いのではないだろうか。
初期の戦後民主主義教育では「封建的」という言葉が非常に強力な否定語だった。つまり戦前の封建的な価値観を捨てて民主的になれ、という意味で使われていた。民主的が善で封建的が悪という単純な価値評価だった。
今改めて「民主的」が問われるべきではないだろうか。中でも最悪なのは多数決万能主義だ。最近、住民投票によって解決すべきだ、という主張が目立つ。私にはこれは「多数者のために少数者を犠牲にせよ」という主張のようにしか思えない。
もし市内のどこかに産業廃棄物処理場を作らねばならない時に市民投票によって決めれば、候補地の近隣に住む少数の人がどんなに強硬に反対しても、それ以外の人の賛成多数によって決められてしまうだろう。こんな手続きは全く民主的ではない。NIMBY(Not In My Back-Yard)は集団と集団との利害対決だ。逆説的な言い方だが、住民つまり当事者は決定に関与すべきではない。被害者と加害者だけによる裁判はリンチのようなものだ。中立の立場の裁判官がいて初めて裁判が成立する。裁判官のような、直接的な利害関係の無い第三者に決定を委ねるべきではないだろうか。
「民意を問え」という掛け声の元でとんでもないことが決定されることは決して少なくない。ヒットラーがドイツ国民の圧倒的な支持を得て総統に選ばれたという悪しき歴史的教訓を忘れるべきではない。
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