俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

独在論

2007-11-14 20:19:10 | Weblog
 「仮象」で軽く触れたことがあるが、独在論という考え方がある。実在するのは自分だけで周囲は仮象でしかない。この世はテレビゲームと同じで意思を持っているのは自分だけであって自分の欲求に合わせて世界は作られている。世界は自分が総てであり自分が死ねば世界も終わる。
 この考え方はデカルトの「我思う、故に我在り」から容易に導き出せる。確実なものとして「考える自分」を想定すれば必然的に周囲は総て不確実なものとなる。優先すべきは確実なものであって不確実なものは確実なものに従属させねばならない。
 但し精神異常者か子供以外で独在論を実践している人を私は知らない。独在論はすぐに破綻する。周囲を意のままにしようとするとすぐに周囲から反撃される。「仮象のクセに実体の俺に逆らうな」と怒っても仮象の筈の人も自己主張をして収集が付かなくなってしまう。
 ここまで極端ではないものとして感覚的独在論という考え方がある。気持ち良い、美味しい、楽しいという感覚は自分が感じるものだ。他人の快感を自分が感じることはできない。他人が旨そうなステーキを食べている場合、快感を感じるのは他人であり、自分には充たされない欲望だけが残る。
 こちらについては私もある程度賛同する。他人の行動を見物するだけではなく自ら実践者でありたいとも思っている。しかし他人の快感の否定については大いに違った見解を持っている。蛇やネズミでさえ相手が痛がると知っているから噛む。蛇やネズミより高度な知性を持つ人間は相手の痛みだけではなく相手の喜びも感知する能力があると思っている。猿でさえ「毛づくろい」で相手が快感を感じていることを理解できるのだから。

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